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2001/09/07

<韓国文化>韓国演劇の現代史

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    韓国の演劇界は、70年代から大きな発展を遂げている(写真は『ゴドーを待ちながら』)

 韓国、中国、日本などの演劇人が参加する「第8回ベセト演劇祭」が、東京、静岡、富山の3カ所で開かれている。同フェスティバルに参加した演劇評論家の呂石基氏による講演「韓国演劇の現代史 60~80年代を中心に」が、このほど都内で行われた。要旨を紹介する。

 韓国演劇を紹介するためには、1945年の解放から言及しなくてはならない。解放後の韓半島情勢は、政治的に南北、理念的に左右に分かれた結果、演劇活動においても激しい内部的対立が生じ、韓国戦争によって決定的打撃をこうむった。

 主にソウルに集中していた演劇人のうち相当数の俳優、演出家、劇作家が理由はともあれ北に行った結果、50年代の韓国演劇は専門的、職業的演劇人の不足に直面せざるを得なかった。

 それに戦後の廃墟のなかで、演劇がいくばくかの活力を取り戻すためにも時間は必要だった。その空白のなかで、韓国演劇を支えたのが劇団「新協」だ。同劇団の活動は、重要な意味をもっている。韓国における新劇の導入ならびに発展の前段階を締めくくる意味をもつこと、職業的劇団経営のモデルを提示したことなどだ。

 60年代はじめに活躍を始めた人達は、大学の演劇サークル出身の非職業的インテリたちが主で、新しい時代の演劇的理念をスローガンに掲げた小劇場的性格の同人たちの集まりで、〝同人制〟劇団と呼ばれた。

 〝同人制〟劇団の多くは、大方の想像を裏切って長命し、韓国演劇を代表する役割を担い、多くの人材を輩出した。

 かれらにはある種の自由があった。それにおそらく、前の世代との摩擦とか衝突なしに、演劇史的交代が可能だったせいもあると思う。

 したがって、演劇する行為に対する苦しみやもがきも、相対的に少なかったのではないか。だから、彼らが成就した具体的な演劇成果を云々するよりは、この〝同人制〟演劇が60年代に担った役割(ほかの代案がなかったのだから)、そして演劇の火種を次の世代に引き継いだ役割を高く評価する。

 次に70年代の演劇についてだが、韓国演劇の〝現在〟はこの時期に初めて成り立った。

 この時期をひとつにくくるキーワードとして、私は〝自らのアイデンティティ探し〟という表現を使いたい。

 なぜならば70年代は演劇行動の当為性ならびにそれに従う方法論に対して、演劇人自らが質問し、またそれに対する答を得るという、積極的な姿勢を整えはじめた時期にあたるからだ。

 このような状況は、80年代にも引き継がれた。これは60年を前後して西欧、とくに米国で始まった演劇革新の新しい波が10年の時差を経て、韓国演劇にも押し寄せてきたことに起因する。

 この新鮮な衝撃は、実験的であれ前衛的であれ〝演劇すること〟の同時代的意味を自覚させる上で大きな役割をはたした。しかし、70年代の一番大きな変化としてあげなくてはならないのは劇作家の進出だ。

 50年代もしくはそれ以前から活動した劇作家(柳致眞、呉泳鎭)、60年代に中堅作家として活動し今なお健在している人たち(軍凡錫、李根三)は別として、70年代のはじめにあらわれた一群の若い劇作家たち(呉泰錫、朴祚烈、尹大星、李康白など)は、この時期、韓国演劇活性化のため中樞としての役割を大きく果たす。

 彼らが書いた創作劇は韓国の歴史と現実、韓国人の心性にひそむ深層のリアリティを題材にして、ときにはリアリスティックに、または風刺として、それとも寓話か祭儀的な接近による、多様な試みをしている。

 次に80年代の韓国演劇の中で、非常に目立つ一つの現象がある。

 80年の光州事件を引き金にして成り立った軍事政権は言論と表現の自由を極度に制限した。これに対抗する手段として活用されたのが伝統芸能、特にマダン劇と呼ばれる形式だ。

 そのもとになるのが、70年代から大学キャンパス及び在野運動園を中心に行われた、民族主体的反体制抵抗的な、伝統芸能の活用だった。それが80年代になって、もっと鋭く民衆を前面におしだして、芝居を政治的行動に結びつけようとしたのがマダン劇あるいは民族劇の理念だ。

 この運動が当時の韓国演劇に及ぼした影響は少なくなかった。演劇を時代的現実と結びつけるありかたとは一体何かという問題が真剣に出されたからだ。

 しかし民主化の進展とともに80年代後半になりますと、民衆か芸術かという素朴な二分法的分け方はあまり意味をなさなくなった。そのかわり、マダン劇を劇場の内側に引き入れてその内容や手法をいろいろ活用する動きがみられたし、それはそれなりの成果があった。

 80年代から90年代にかけて非常に興味深いのは、例えば呉泰錫が率いる劇団木花だとか李潤澤の劇団ヨンヒダン・コリベの場合だ。彼らに共通して見られる創造のための強い自己主張、演劇実験、それに劇団メンバーたちの共同体意識などは大きな意味を持つ。

 終わりに、80年代の韓国演劇の発展に少なからず貢献したソウル演劇祭と全国演劇祭、そして韓国演劇の国際交流に関して話たい。

 77年、大韓民国演劇祭という名称で韓国文化芸術振興院と韓国演劇協会がはじめたソウル演劇祭(1987年改称)は創作劇振興を目的とした公演フェスティバルで毎年秋に開かれ始めた。

 全国演劇祭はソウル以外の全国各市道を網羅した地方演劇のフェスティバルだ。
90年代以降、地方自治制が根をおろすにつれて、〝演劇の全国化〟は新しい世紀の重要な課題となっている。

 国際交流の始まりは、81年に政府の支援を得て韓国ITIセンターが主催した第三世界演劇祭だ。

 88年のソウル・オリンピックの芸術祝祭にはギリシャ国立劇場から『オイディプス王』、日本からは歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』などの古典劇とともに、それまでは呼べなかった東欧諸国からも参加した。

 遺憾ながら80年代までは中国の演劇は訪れていない。90年代以降は日本や中国はもちろん、世界各国との演劇交流は非常に盛んになった。