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2001/01/19

<韓国文化>新羅伽耶の不思議⑩

新羅・伽耶の不思議 ⑩  韓 永大
 独自の暦・年号を使用
 現存最古の天文台・瞻星台

 古代にあっては、暦は現代人以上に日常生活に深く関わり、かつ国家間の授付は冊封への臣従関係を規定するなど、国力の象徴として利用された。こうした時代、統一新羅(668年)直前の少なくとも1世紀の間、新羅が自国の暦を用いていた可能性があり、さらに独自の年号も使用していた。このことは中国諸王朝の暦あるいは年号を使用していた高句麗、百済とは異なる点であり、新羅文化の独自性を物語る重要な点だ。

 そこで歴史に登場するが、現存世界最古の天文台といわれる瞻星台(せんせいだい、善徳女王時代の632|647年築造)だ。総計365枚の花崗岩切石が暦年の日数と一致するばかりか、安定した構築法でその姿が今日に残されていることは、驚嘆そのものである。

 唐の介入まで新羅年号存続

 三国史記には、28代眞徳女王2年(648年)、唐の太宗が新羅の独自年号使用をとがめるのに対し、新羅が「中国王朝から暦が頻たれず、それゆえ法興王(514|540年)以来、独自の年号を使用してきた」との記事がある。

 そのことから新羅が中国の暦を用いず、年号も法興王23年(536年)以来649年迄、新羅の公年号(建元、開国、太昌、鴻済、建福、仁平、太和)を使っていたことが分かる。この唐の介入直後、650年に唐の年号「永徴」に改元、以後新羅年号は途絶えた。

 一方、高句麗や百済には三国史記に現れた公年号はなく、金石文から高句麗の永楽(好太王)と延寿(その子・長寿王)の年号が知られている。

 新羅文化の謎解く瞻星台

 三国史記の日蝕や彗星などの天文記事には、高句麗の高度の天文学を含めて、新羅の瞻星台独自の天文記事はない。このことから、瞻星台が天文台ではないのではないかとの説があるが、一連の事実からして瞻星台が天文台とする通説には、合理的根拠がある。

 奈良・明日香村の亀虎(キトラ)古墳(7世紀末|8世紀初)の精密な星座図(星縮図)は、調査の結果、北緯38―39度上の高句麗・平壌付近から見た正座群と判明(1998年)したが、このような詳しい天文記事は三国史記に反映されていない。理由は不明だが、瞻星台の場合も詳しい記録はないが、天文観測があったことはこの石造遺構が証言している。

 祭祀日はローマ式表記

 北方性の顕著な新羅文化だが、しかしあくまで中国の漢字文化圏の国だ。漢字の新羅式利用(吏読=りとう)や新羅年号の中国式干支との併用など、中国文化を受容し、発展している。

 唐以前、百済の元嘉暦(宋・梁)、高句麗の玄始暦(北魏)に対し、新羅がどこの暦を使っていたかは不明だ。北方遊牧民、羌(きょう)族の子孫は今日でも独自の暦を使用しているが、当時の新羅にも独自の暦があった可能性が強い。

 新羅の暦の一部を反映していると思われる祭祀日が三国史記にある。新羅では先祖供養と五穀豊穣を願って、年6回祭祀したとあり、「正月2日、5日、5月5日、7月上旬、8月1日、15日」がそれである。

 国家の重要行事である祭祀日付が中国や日本の干支式(例えば日本の「初午」)でなく、ローマ暦式の何月何日という表記になっている。これは干支式とは全く発想を異にする現代的な西洋式表記で、かつては新羅ではこのような使用法が生活に広く行き渡っていた可能性を想像させる。こうしたことや新羅の年号から推して、新羅には独自の暦があったとの根拠を見出すのである。
                     (おわり)

 <筆者紹介>
 ハン・ヨンデ 1939年岩手県生まれ。在日2世。韓国美術研究家。上智大学英文科卒。著書に「朝鮮美の探求者たち」(未来社)、訳書に「朝鮮美術史」(A・エッカルト著、明石書店)。