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2002/09/27

<韓国文化>日本の韓国文化理解に寄与

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                     藤本 幸夫 氏

 大阪外国語大学客員教授として日本で韓国文化紹介に尽力し、韓国に帰国後は東国大学に日本学研究所を開設して日本文化を韓国に紹介、「万葉集」の韓国語訳を発刊するなど、韓日文化交流に多大な貢献をした金サヨプ博士の十周忌を迎え、母校である慶北大学でこのほど「追慕学術論文発表大会」が開催された。金博士と長年親交があり、同大会に出席した藤本幸夫・富山大学教授に、金教授についての寄稿をお願いした。

 故金サヨプ博士(1912-92、号清渓)の十周忌を記念して、本年8月19日韓国慶北大学校師範学校愚堂教育研究館で、「追慕学術論文発表大会」が挙行された。同校は戦後先生が教授をされたゆかりの大学である。先生早年の門生沈載完博士を中心に、友人や門下生の方々が多く集い、学術論文及び先生の遺徳と業績を讃える発表があった。

 先生は15世紀半端宗復位を図って獄死した白村金文起公の15世孫で、名門金寧金氏出身である。幼くして,頴悟人に過ぎ、「神童」と称された。大学入学前に小説や童謡を雑誌に投稿して受賞、特に日本の『少年倶楽部』では金賞を得られた。三南(慶尚・忠清・全羅道)で唯一の高等学校である、名門大邱公立高等普通学校で学ばれたが、学生達は自負心が強く、多感な学生時代を送られたのであろう。

 1933年に京城帝国大学法文学部に入学、高橋亨・小倉進平両教授主宰の朝鮮語朝鮮文学科に進まれた。朝鮮語使用が抑圧下にあり、専攻学生は極小であったが、先生は民族文化発揚のためにその道を選ばれた。

 先生の御専門は朝鮮文学であり、『李朝時代の歌謡研究』で博士号を取得されたが、学生時代の資料調査を基に『俗談(諺)大辞典』『朝鮮民謡集成』、その他『朝鮮文学史』『鄭松川研究』『春香伝』等は、学界で先鞭をつけられた業績である。先生の業績は韓国語著書25冊、日本語著書24冊、論文等300余篇に上り、その分野も広範である。

 先生は大学卒業後請われて慶北大学校で韓国文学を講じられたが、その門下から現在は学界の長老となられた多数の碩学が輩出した。資料発掘の重要性を説き、学生を率いて海印寺・慶尚道の名家・松広手等を踏査し、多くの新資料を世に出された。その後ハーバード大学でアルタイ語学を研究され、帰国後は初代大学院長として制度の整備と充実に尽力された。

 60年に天理大学朝鮮学科の招請で来日、63年には大阪外国語大学に新設された朝鮮語学科に移られ、爾来82年迄有為の人材を多数輩出された。61至77年京都大学文学部に出講され、筆者はその時の学生で、先生の御尽力で韓国留学が実現した。外国人教官として先生ほどの碩学を得ることは、どの語学の分野でも不可能に近い。日本は大いなる幸いに恵まれたと言い得よう。

 先生の活躍の場は関西が中心であったが、日本の韓国語学・文学への貢献に止まらず、司馬遼太郎氏等の知識人との交流も深く、著書や講演を通じて日本の韓国文化理解に大きく寄与された。

 82年後帰国後は東国大学校日本学研究所所長として、日韓文化交流の懸橋となられた。日本政府は勲四等旭日小綬章で功に報い、大阪府も又日本文化への貢献に対して山片蟠桃賞を贈呈した。

 先生御夫妻の奥津城は永川山中の小丘、南に山並みを望む静謐の中にあった。我々日本人は青天の下で、十周年を企画された御遺族と共に韓国式大礼を捧げた。御遺族による全集の発刊も間近い。御夫妻も黄泉でさぞかし莞爾と笑みを浮べておられるであろう。

  ふじもと ゆきお  1973年京都大学文学部博士課程終了。1975年大阪大学文学部助手。1978年富山大学人文学部助教授を経て教授。