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2006/05/19

<韓国文化>陶磁器が語る高麗との交流

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               青磁蓮弁文椀(高麗中期)

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               青磁印花文皿(高麗中期)

古代以来、博多(福岡県福岡市)は大陸、韓半島に向けた日本の西の玄関口として栄えてきた。福岡市博物館では6月18日まで、「考古資料にみる高麗と博多」展を開催している。その概要を紹介する。

 中世の博多では大陸との交易活動が活発に展開していた。特に中国の宋(960~1279)との間で行われた日宋貿易は広く知られている。この時期の博多周辺の遺跡を発掘調査すれば、農村集落からも宋から輸入された陶磁器や銅銭が出土するなど、日宋貿易の影響は至るところに見ることができる。やがて、高麗(918-1391)をふくめ三カ国間で貿易が展開されるようになるが、日宋貿易の陰に隠れ、高麗との間で行われた日麗貿易についての実態は、今一つはっきりとしない。そこで、高麗から渡来、或いは影響を受けた考古資料から、高麗との交流を探ってみたい。

 日麗貿易は、大宰府官人が宋商人も交え、中央権門と密接な関係を保ちつつ展開していたものだ。高麗からの輸入品は、宋の場合のように膨大な量が広範囲に流通したものではなく、一部の階層に限られていた。博多出土の輸入陶磁器のうち中国産の占める比率は95%を超えている。それ故、高麗陶磁は量産され安価な中国陶磁には到底太刀打ちできるものではなく、交易品としての評価を得られなかったといわれる。

 高麗の青磁は青灰色の胎土に鉄分を含んだ釉(うわぐすり)を掛けて焼き締められたものだ。同じ時代に中国宋で大量に生産され、日本に輸出された龍泉窯青磁りゅうせんようせいじなどと比べると高麗青磁は釉が薄く掛けられている。中国青磁が釉を三、四度掛け厚い釉層を形成し、青く発色するのに対し、高麗青磁は一、二度掛けで釉層は薄く、釉は透明感の強いものだ。胎土と釉の色が重なり「裴色(ヒスイの色)」に発色している。

 11世紀後半から12世紀前半にかけて、高麗陶磁は青磁と陶器が大宰府と博多に集中して出土している。出土した青磁の大半は無文で、施文方法は型押し、蓮弁削り出しといった中国でもよくみられるものだ。11世紀後半では全羅南道康津窯産の精製品が少数出土するにとどまっていたが、12世紀前半に入ると精製品にかわって粗製品の出土が急増する。粗製の青磁は粗い白色の砂粒を含んだ胎土に、薄い釉が掛けられているが、その多くは焼成不良により釉が不透明で発色は良くない。ある程度量産されるようにはなったが、品質が落ちている。

 大宰府ではこの時期の高麗陶磁の90%が大宰府政庁、学校院、観世音寺とその周辺に集中して出土している。このことから大宰府官人が日麗貿易に大きく関与していたこととみられる。但し、広域での流通はしていないようだ。

 高麗青磁の中で代表的なものが象嵌青磁だ。もともと象嵌は金属工芸の技法だったが、それを陶磁器に応用した高麗独自のものだ。象嵌は生乾きの器面に彫刻刀で陰刻文様を彫り、そこに白い土や赤い鉄分を含んだ土などを埋め込み、釉を掛け焼き締めたもの。透明感の強い釉越しに文様に埋め込まれた土はそれぞれ白、黒に発色し、無文、陰刻文様だけの青磁に比べると見栄えがする。

 高麗青磁といえば象嵌青磁が想起されるが、象嵌技法が本格的になるのは12世紀後半以降。この時期に入ると、博多では宋磁の出土量がやや沈静化し、高麗青磁の出土は急減する。逆に京都や鎌倉で高級青磁の出土が増加している。北部九州で再び増加するのは14世紀後半に入ってからとなる。(佐藤一郎・福岡博物館主任文化財主事)

◆「考古資料にみる高麗と博多」◆

期 間 4月11日-6月18日(月曜休)
場 所 福岡市博物館 ℡ 092・845・5011
     JR博多駅からバスで約30分
入館料 一般200円、大・高生150円、中学生以下無料