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2007/06/08

<韓国文化>韓日連携による「近代化」探る

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              世宗大王(『歴史読本:韓国史を歩く』より)

 田村紀之・二松学舎大学教授による新連載「朝鮮近代化と明治日本―19世紀末の青春群像」を6月15日号から社会面で掲載する。19世紀の朝鮮で、開化派の金玉均らが英国に艦隊派遣を要請し、日本国内で秘密裏に開国交渉を行おうとした史実を通して、韓半島への列強進出を遠ざけようとした当時の指導者たちの追うものだ。「連載にあたって」を田村教授に寄せてもらった。

 植民地争奪に血眼になっていた欧米列強の関心が東アジアに向けられ、それがアヘン戦争として火を噴いた頃、当事者である清国はもちろん、朝鮮も日本も、決して太平の夢をむさぼっていたわけではなかった。一部の史書が説くような、停滞のアジアと西洋の衝撃という図式は、そろそろ願い下げにしてもよいだろう。だが、アヘン戦争が契機となって、それぞれの国内に、政治体制を改革し、軍事的にも経済面でも、「近代化」を急ぐべきだと主張する人たちが育っていったことは間違いない。

 「近代化」の意味はあとで考えるとして、そのような改革志向の延長線上で、各国独自の対応に限界があることを悟り、国際的な連携によって列強に対抗すべきだと考える人びともいた。『朝鮮策略』の黄遵憲と彼に触発された金玉均、東洋平和論の安重根、そして大アジア主義を唱えた孫文も、そうした外交戦略の持ち主だった。ただ残念ながら周知のように、列強の尻馬に乗った日本が、彼らの構想を混乱させ、ときには夢と運動を挫折させ粉砕してしまった。

 アジア・太平洋の時代と呼ばれるようになってから久しいが、朝鮮半島と台湾海峡の近未来は依然として不透明である。日韓関係と日中関係も、ひと頃の冷却状態からは脱したように見えるが、不安材料にはこと欠かない。どうしてこういう事態に陥ってしまったのかと考えると、話はやはり一九世紀末、明治日本と韓末期の李朝、そして清朝末期の国際関係に戻らざるをえなくなる。そこで、本紙の紙面をお借りして、この時期の三国関係を、当時を彩った指導者たちの軌跡を通じて、見つめ直してみることとしたい。

 経済学を専門とする筆者にとって、歴史は素人の域を出ない分野である。が、とにかく猛勉強を重ねて、この課題に取り組む積りである。思わぬ過りも多々あるだろうが、読者諸賢のご寛恕とご教示をまちたい。

 筆者のもともとの関心は、「植民地近代化論」批判との関連で、韓国の経済発展の始発時点をどこに求めるかという問題に端を発しており、李朝時代に遡って議論の再構成すべきだ、という発想に基づいている。「植民地近代化論」については、近く刊行予定の『韓国経験の政治経済学』(青山社)にまとめておいた。

 本紙にはかなり以前に、奥村五百子(おくむら・いおこ)の光州実業学校について書き(2000年8月4日号)、また最近では、I・C・ラックストン著『アーネスト・サトウの生涯』(雄松堂)を紹介するかたわら、李東仁の足跡を追ってみた(06年10月6日、13日号)。後者に関しては、韓国の専門家から、身にあまるご声援を頂いた。後日、萩原延壽の大著『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』(朝日新聞社)ほかの先行研究の成果を織り込んだ結果、この部分はもとの数倍にも膨れあがってしまった。重複をおそれず、その後の調査結果についてもご報告申し上げたい。このときに得た教訓は、極めて当然ながら、日韓関係史を狭く両国内に閉じ込めてはならない、ということだった。

 ともあれこの連載では、とくに人物を中心に話題を拾ってみる。そうすると李朝側からの二大スターは、金玉均と安重根、ということになる。ときには世宗大王や春香、日本の聖徳太子と桃太郎、中国からはなんと唐代の詩人・韓愈と周恩来、さらにインドのチャンドラ・ボースにもご登場願わざるをえない。つまり、時間と空間、史実と仮想のあいだを気ままに放浪するわけだが、その理由はあとの楽しみとさせて頂きたい。

 近年、新しい資料の発掘が進んでいて、これまでの定説を覆すような異論が各国であいついでいる。目配りの行き届かない点はあるだろうが、可能なかぎりこれらをフォローすることにより、なんとか新味を出せれば、と念じている。


  たむら・としゆき 1941年、京都生まれ。一橋大学卒。東京都立大学経済学長などを経て二松学舎大学教授。20年前に韓日の経済・経営学者を組織し、日韓経済経営会議を発足。現在、それを改組した東アジア経済経営学会の顧問。