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2007/03/30

<韓国文化>立ちはだかる壁に常に挑戦

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    キム・ヨンシン 「A Cold Night」

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                上条陽子 「Document06」

 「クロスオーバーナウ(今を越えて) 日・露・韓 交流美術展」が4月13日から17日まで、東京・市ヶ谷の山脇ギャラリーで開催される。韓国10人、日本15人、ロシア8人の33人が出品する現代絵画展だ。出品者の一人、上条陽子さん(多摩美術大学客員教授)に、同展の意義について文章を寄せてもらった。

 “今を越えて”ヨシダ・ヨシエ氏のオーガナイズで日本、ロシア、韓国の交流展を山脇ギャラリーで4月13日から17日まで開催する。33人の絵画と彫刻で構成される。初日には画家を囲んでギャラリートークも行われる。

 今では交流展は珍しくなくなった。世界各国と草の根の交流が盛んである。殊に韓国との交流は隣国ということもあり盛んである。その一つ2004年に第1回展が仁寺洞のSUSIN(スシン)ギャラリーで3カ国展が行われた。韓国、ロシヤ、日本から7人ずつ女性画家のグループ展“スリーセブン”を開催した。

 3階建てのしょうしゃなギャラリーは仁寺洞の中ほどにあった。私は何度も仁寺洞に行ったことがある。平澤での展覧会の度に仁寺洞に寄る。ある時は韓紙を買うため、画廊めぐりをしたり珍しい韓国茶屋、喫茶店は何度行っても飽きることはない。韓国伝統ポジャギのような美しいタッチで描かれたキム・ヨンシンさんの作品は、とても印象的だった。

 2005年にはウラジオストクで第2回展を開催した。ウラジオストクは軍港のため開放されたのはペレストロイカとグラスノスチによりやっと20年足らず。日本との交流はまだ珍しい。私が初めて海外へ行った時は横浜港の大桟橋からバイカル号に乗りナホトカ、ハバロフスク、モスクワ、パリと向かった。あれから30年振りのロシア、ウラジオストクである。

 会場は芸術家の家で歴史を感じさせる重厚な建物、大理石の高い天井の広い3部屋、2階と3階は画家のアトリエと教室、かつては選ばれた画家が国からアトリエを与えられ国のため伝統的な絵やプロレタリアートを描いた。現在ではこのシステムは廃止されているがアトリエは使われている。

 しかもここは私にはゆかりの地である。母が1913年ウラジオストクで生まれた。祖父はロシア語の通訳で、母が5歳の時開戦のため妹と弟と祖母が先に帰国、その後祖父は病気にかかり帰船中毛布にくるまって寝ている所を海中に投げ捨てられる所を懇願してやっと助かりほうほうの態で帰国45歳の若さで亡くなった。叔父はウラジオストクとハルピンに徳永商店と銀行を持ち二葉亭四迷が顧問であった。

 今年の展覧会は日本が接待役で準備を進めている。2年前から会場探しが始まったが日本には広い会場が少ない、公共の施設はほとんどが6カ月前の抽選で、もれた場合を考えると企画することはできない。ロシアのビザ取得だけでも数カ月もかかるのである。苦労して駅に至近距離の便利な山脇ギャラリーをやっと借りることができた。

 ソウルから申さん(オーガナイザー)と作家10人の計11人、ロシアから8人の画家が来日する。この機会に、それぞれの国の歴史や時代背景を背負った今の画壇の現状や話を聞き、知りたいと思う。韓国や日本の画家は世界各国で活躍している。渡航も自由で多くの若者が夢と希望を持って海外へ留学し学んでいる。グローバルでボーダーレスな時代、ヨシダ氏の言われるように異郷感をもたざるを得ない。閉された長い時間をもつロシアの画家も同じ線上にいる今をどうとらえているのだろうか。

 世界は自由になった。なっただけとりとめもなく拡大してしまった。画家は常に立ちはだかる壁に向って挑戦する。壁を乗り越えねばならない、次なるステップを探し歩まねばならない。とりとめもなく自由の壁が立ちはだかっているのである。それは無限な可能性を秘めているのかそれとも限界を知ることなのか。

 明日に向けて前進していくにはどうすればよいか、改めてこの機会に考えてみたいと思う。


 かみじょう・ようこ 多摩美術大学客員教授。1978年安井賞受賞。1996年ISE美術財団(ニューヨーク)で個展。2005年「Seven Rainbow」(ロシア・ウラジオストク)。2006年相模原市民ギャラリーで個展。


■日露韓交流美術展■

日時:4月13~17日
場所:山脇ギャラリー(東京・市ヶ谷)
入場料:無料
℡03・3264・4027