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2008/11/21

<韓国文化>書は精神世界の表現

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    陳学鍾書、杜牧の七言絶句「山行」

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                陳 学鍾氏       

 韓国の著名な書家、陳学鍾(チン・ハクチョン、85)さんの草書を紹介する「翠雲 陳学鍾草書展」がこのほど、東京・南麻布の韓国文化院で開かれた。陳学鍾さんは、韓国で失われつつあった草書を再現するため、半生を捧げた作家で、古書をもとに草書などの研究を重ねて作り上げた書体を「翠雲体」と名付け、独創的な作品をこれまで製作してきた。陳学鍾さんが追い求めてきた草書について、文章を寄せてもらった。

 書は文字を媒体として書家の精神世界を表現する芸術である。文字が持つ本来の機能である意思の伝達とか記録などの役割を超え、これがひとつの芸術として登場したのは東漢(後漢)末であるが、本格的に根をおろして書の「ルネサンス」を謳歌したのは六朝時代であった。人間の持つ欲求の中で、「美」への追求ほど強烈なものはないであろう。

 文字の字体のうち多く使われるのが楷書と草書である。楷書の形は一つであるが、草書は書家が自由奔放に筆を揮うので博学でなければわからない。いにしえ、漢字文化は中・韓・日の順に伝わってきたが、現今の変遷推移はどうか。草書の「メッカ」を名乗る当事国でさえ、草書はすでに「きらず」(おから、卯の花)の待遇をまぬがれず、歎息痛恨せざるを得ない。ましてや、戦後略字量産のいちじるしさは文化交流において目がまわる次第である。

 次に韓国はどうか。国家が法律であらゆる公文書から漢字を追放し「ハングル」専用であるのに、成年必携の住民登録証は漢字で表記している。受信人の住所と名前を漢字で書けば、郵便配達人が漢字を読めないので、手紙が戻ってくるかと心配することがある。大学を卒業した者でも、国号や父母の姓名はもちろん、自分の名前すら書けない者が多い。

 漢字を知っていると日本語や中国語を勉強しなくても筆談ができるし、道路標識や看板などが読める。漢字文化圏の観光客が韓国を訪問しても同じことになる。韓国の「ハングル」は世界中の言語学者たちが讃える理想的な文字で、韓国人ならばだれ一人ハングルを愛さない者はいない。だが、それでも隣国の仮名・漢字混用が羨ましいのである。

 日本においては、水戸藩主徳川光圀の命を受け、漢から明にいたるまでの草字を広く集めた二十二巻にわたる大部「草露貫珠」が編纂された。これは東洋三国の漢字圏でまさに日本国の不朽なる誇りであり、これを凌ぐ草字教本は中国にも存在していないのである。

 さてしかし、現代の文化は到底古代の文化に及ばないのである。というのも古代の文化はいかにも素朴、いかにも実質であるのに対して、現代の文化はいきおい華美・華麗に走るからである。私は書の中で巧(たくみ)を排除すべく意の留まるところあって、すべてを握筆でこれを試みたのである。

 草書の妙味は速筆に筆を取れば滞ることなく書けるような、そのような長文を書き記すことによって草書の麗しい姿が現れるのはいうまでもない。滞ることなく書くためには、まず文章を暗誦できなければならない。たとえば陶淵明の「帰去来辞」は字数三百三十九字。これを三十分もかからない速筆で書かなければ、速度による新奇百出の変化の妙を尽くすことは不可能である。

 速筆ができたうえで方向を転じて速筆とは逆の志向を自分に課せば、ゆくゆくは書の美的世界に至りつこうが、速筆ができていないのに遅筆ばかりに耽ると書の絶妙な境地とは縁遠いものになろう。「心はのどかでありつつ手は俊敏」である。

 これまで、詩文学の宝庫である「古文真宝」を題材としてきたのは、中国の詩文が単なる外国文学としてでなく、自分たちの文学の古典として愛読されているからである。文化一般に及ぼしたその影響は大きくかつ深く、わが国の文学の思想を深め文辞を豊かにしたことはいうまでもない。

 日本においても、万葉集や源氏物語、平家物語から漱石・鴎外らの近代文学にいたるまで、中国詩文の影響は大小深浅の差はあってもどこかにその跡をとどめていることは否定し難いであろう。これらの中国詩文の教養がなければ、日本の文学を十分に理解することは困難であるといっても過言ではない。