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2008/10/31

<韓国文化>中国の影響受け、それぞれ独自に発達

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    飛鳥京跡の発掘現場。これまで4期159次におよぶ発掘調査が行われた

 奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所創立70周年記念「秋季特別展 宮都飛鳥」が、奈良県橿原市の同研究所付属博物館で開催中だ(11月30日まで)。飛鳥時代の都城遺跡と、同時代の東アジアの都城遺跡についての調査研究成果を紹介した企画だ。同博物館の山田隆文氏に文章を寄せてもらった。

 飛鳥京跡とは、『日本書紀』などに名前が記された歴史的な用語ではない、奈良県立橿原考古学研究所が1960年以来、半世紀にわたって発掘調査を実施している飛鳥時代の宮殿遺跡の総称として現在は用いている。飛鳥京跡は4期に区分されることが判明しているが、これまでの159次におよぶ発掘調査の成果と研究の結果、4期がそれぞれ、舒明(じょめい)天皇の飛鳥岡本宮(西暦630~636)、皇極(こうぎょく)天皇の飛鳥板蓋宮(643~645)、斉明天皇から天智天皇の後飛鳥岡本宮(656~667)、天武天皇から持統天皇の飛鳥浄御原宮(672~694)と、6代の天皇の4つの宮であることがほぼ確実視されるようになった。

 このうち、最も上層で確認される第Ⅲ期遺構は後飛鳥岡本宮と飛鳥浄御原宮である。内郭と外郭の二重構造で、後飛鳥岡本宮の時に内外郭がまず造営され、飛鳥浄御原宮の時に内郭の東南に新たに独立した郭が造営された。検出された土地の地名をとって「エビノコ郭」と名付けられた区画には、その中心に飛鳥京跡で最大規模の建物跡「エビノコ大殿」が建てられていた。

 さて、目を東アジアに向けてみたい。日本では飛鳥時代と呼ばれる7世紀は東アジアも激動の時代であった。中国では隋による南北の統一と滅亡、唐の建国があり、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅三国の攻防が激しくなり、そこへ隋唐の関与も加わり、やがて新羅の統一へと向かう。

 古代朝鮮では、新羅以外の二国は幾度か遷都を重ね、在地色の強い形態から、中国の都城制度の要素を取り入れたものなどへと、それぞれに独自の発展を遂げてきた。古代朝鮮の都城に共通するのは、百済にはまだ疑問符がつくものの、最終的にいわゆる「条坊制」という碁盤の目状の市街地整備を採用しているということである。ただし、それぞれ平面形態や規格が異なり、また中国の典型的な条坊制都城と比較してもかなり異質なものである。

 高句麗の長安城(平壌城、現在の平壌市)は552年に遷都したという年代から、中国北朝の都城の影響が考えられる。しかし、都城全体のプランは極めて朝鮮的なもので、その外郭(羅城)の内側に条坊を施行している形態は部分的でかつ不完全なものといえる。

 538年に遷都した百済の泗沘(サビ)城(現在の忠清南道扶余邑)は、三方を河川が、残りを羅城で囲んだ都城である。百済が友好関係にあった南朝の都城、建康の影響が想定されるが、その構造については、まだ不明な点が多い。

 新羅の金京(現在の慶尚北道慶州市)は、いわゆる条坊制を採用しており、7世紀後半とみられる造営時期から、唐の長安城や洛陽城の影響が考えられる。新羅の都城は三国時代以来の王宮や王陵、仏教寺院などの既存施設が多数あったことから、それらの地理的制約のため、隋唐のような都城プランをそのまま採用することはできなかったと考えられる。そのため、結果的には実現しなかったものの、王から遷都計画も出されている。

 次に、日本との関連性を見てみよう。飛鳥時代前半期に日本と最も関係が深かったのは、百済であった。そのため、飛鳥の諸宮も少なからず百済の泗沘城の影響があったのではないかという指摘は以前からある。しかし、泗沘城の王宮の構造については、近年、王宮跡と想定されている官北里遺蹟の発掘調査で大型建物が発見されるなどの成果はあるものの、具体的な宮殿の配置など、その全体像はまだ判然としていない。

 一方、飛鳥時代後半期、飛鳥から遷宮した藤原宮とその周囲に展開する藤原京は、同時代に造営された新羅の金京との関連が注目される。ともに条坊制を採用しており、藤原京は金京の影響を受けて造営されたのではないかとする説もある。たしかに、当時は日本・新羅ともに唐とは敵対関係にあり、日本は遣唐使の派遣を中断して、新羅と互いに使節の派遣を頻繁におこなっていた。藤原京を造営したのは、まさにこの時期であるため、当時の日本人が実際に目にすることができた海外の都城は新羅の金京だけだったのは間違いない。

 しかし、近年発掘調査が盛んに行われている新羅金京の構造を詳細に検討すると、藤原京との共通点を見つけるのは実は困難であり、むしろ相違点の方が多い。互いの直接的な影響はなく、それぞれが唐との関係が悪化する以前に得ていた情報、見聞をもとに、独自に理想形を求めて都城を造営したとみるのが妥当ではなかろうか。

 日本と新羅の関係は、奈良時代に、唐の宮廷で賀正の儀式の際に、席の順位をめぐってトラブルがあったというエピソードがある。日本と新羅は常にその優劣を争っていたわけで、都城の造営についても互いに張り合っていたのかもしれないと私は想像している。


■秋季特別展「宮都飛鳥」

日時:開催中(11月30日まで)
料金:大人800円、高大生450円ほか
TEL0744・24・1355
*3日午前10時より奈良県社会福祉総合センターで韓日中の学者によるシンポジウムあり。