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2008/09/26

<韓国文化>朝鮮と日本、知識人交流の貴重な記録

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    巻物の冒頭。三島中州の自筆で筆談の由来が書かれている

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    巻末では、三島と崔成大が共に感謝を述べて筆談を終えている

 1881年、朝鮮から日本視察に訪れた「朝士視察団」の随行員の一人である崔成大氏が、日本の二松学舎大学を創立した漢学者、三島中洲氏らと漢文で筆談した記録がこのほど、巻物の形で発見された。時候のあいさつから、朝鮮と日本の文化、生活、政治に至るまで4時間にわたる懇談の記録である。当時の知識人が両国関係をどう認識していたかを知る、貴重な資料だ。

 朝士視察団は代表12人で構成され、それぞれに随員2人と通訳1人、下人1人がつく5人1班を基本に編成された。総勢62人に及ぶ政府視察団である。彼らは12の班に分かれて、文部省、内務省、司法省、外務省、大蔵省などを訪問する一方、造船所、造幣局、印刷局、紡績工場、製糸所、鉱山などの施設、さらに学校、図書館、病院、博物館、新聞社などを訪ねた。

 一方、日本の近代制度を学ぶため、各省庁で官制、海軍・陸軍で軍制を、ほかにも税制、刑法などについて学んだ。また三条実美太政大臣ら政府要人とも会見し、日本の開化政策について調査した。帰国後に報告書がつくられ、その内容は、朝鮮政府内部の開化派の発言力増大に大きな影響を及ぼしたとされる。

 その代表12人の一人、嚴世永の随員が崔成大であり、彼らは主に司法省を担当しながら、日本の実情把握につとめ、また日本の要人、知識人と話を交わした。その過程で行われたのが、大審院判事(現在の最高裁判所判事)を務めた明治法曹界の重鎮であり、日本の著名な漢学者で、二松学舎大学の創立者である三島中洲、三島の友人で同じく漢学者の川北梅山との3者による筆談である。

 筆談は、同年7月9日午後3時から7時まで4時間かけて行われた。相手国についての知識が少なかった時代、三島中洲と川北梅山が朝鮮の料理や住居について聞くところから始まる。崔成大はオンドルなどについて説明した後、三島中洲と川北梅山の経歴などについて聞いている。

 次に三島は儒学について質問し、王仁博士(4世紀頃、百済から渡来し、日本に漢字と儒学を伝えた学者)や李退渓(朝鮮朝時代の儒学者で日本の林羅山らに強い影響を与えた)の話、易や医学の話などが交わされている。

 日本および世界の情勢に話が進むと、三島は西洋の法律の一長一短について述べた後、「朝鮮から伝わった儒学などの学問を軽視するあまり、道徳が衰退した」と強調する。漢学者であった三島の思想、日本の知識人が朝鮮をどう見ているかを知ろうとする崔の考えが伝わる部分だ。

 会談の最後には、「一視同仁」(偏らないで物を見る公平な態度)が話題の中心となり、西洋について、そして西洋の圧力を受ける東洋について話が及ぶ。

 三島は崔に孟子の言葉を引用しながら、「敵国の外患の無い国は滅亡する(憂患に苦しむことによって本当の生き方がわかる)」とし、現状に西洋の外患があることが亜細亜の幸いであると結論する。これに対し崔は誠に素晴らしい論であると答えている。

 三島中洲と崔成大がどこで知り合ったのかは不明だが、司法省か文部省、または視察団が創設まもない二松学舎を訪ね、そこで出会った可能性もある。

 筆談後、崔成大は三島中洲に書幅(七言律詩)を送り、同じ亜細亜の地に身を律する者として筆談を行えた喜びを記している。この筆談は縦30㌢、横11㍍の巻物になったが、この巻物をだれがいつ製作したかはわかっていない。

 巻物を発見したのは岡山在住の行政書士、延藤比登志さん(60)。延藤さんは20代のころから骨董品の収集を行っている。

 「2年前に見つけた。象牙の軸がきれいだったので、中身はわからなかったものの購入した。しばらくはそのままにしていたが、巻物の序文に三島毅という名前があったので知人に尋ねたところ、岡山出身の漢学者で二松学舎大学創立者、三島中洲のことと聞き、今年に入って大学に連絡した。学術研究の役に立つなら、こんなうれしいことはない」と延藤さんは語っている。

 この筆談記録について田村紀之・二松学舎大学教授は、「日本と朝鮮の知識人の知られざる国際交流を描いた貴重な記録」と話す。

 二松学舎大学では漢文を全訳した後、韓国の歴史研究家にも同資料について報告する予定で、韓日の歴史家による更なる調査研究が期待される。


 ■朝士視察団とは■

 明治維新を成功させ近代化に向かって進む日本は、朝鮮に対し開国圧力を強めていった。1875年9月20日、朝鮮の江華島付近で日本軍艦の挑発行為により朝鮮との間で衝突事件が起きる。日本は武力で鎮圧し、朝鮮政府に条約締結に向けた圧力をかけていく。

 1876年(明治9年)2月26日、朝鮮と日本は、朝日修交条規(江華条約)を結んだ。これにより朝鮮は開港と日本の居留地を認め、それまでの鎖国からいや応なく開国への道を歩むことになった。その開国を余儀なくさせられた朝鮮政府が、日本の実情を視察するために送り出したのが朴定陽を代表とする朝士視察団(紳士遊覧団ともいう)で、1881年(明治14年)の4月11日に長崎に到着、日本各地を視察した後、7月28日に神戸をたっている。朝鮮と日本の関係改善、日本の実情および世界情勢の理解などが主な目的であった。