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2008/05/23

<韓国文化>"克日"掲げ体育立国へ

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    1988年に開催されたソウルオリンピック。韓国の成績がついに日本を追い抜いた

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    おおしま・ひろし 1961年東京都生まれ。明治大学政治経済学部卒業。出版社勤務を経て、1993年~1994年、ソウルの延世大学韓国語学堂に留学。同校全課程修了後、日本に帰国し、文筆業に。『日韓キックオフ伝説』(実業之日本社、のちに集英社文庫)で1996年度ミズノスポーツライター賞受賞。その他の著書に、『2002年韓国への旅』(NHK出版)、『誰かについしゃべりたくなる日韓なるほど雑学の本』(幻冬舎文庫)、『韓国野球の源流』(新幹社)等。

 スポーツジャーナリストの大島裕史さん(46)が、『コリアンスポーツ<克日>戦争』(新潮社、四六判変型、302㌻、1600円)を出した。建国60周年を迎える韓国が、スポーツ弱小国からスポーツ強国になる過程を描いた力作だ。著者に聞いた。

 今でこそ世界有数のスポーツ強国となっている韓国であるが、今年で建国60年を迎えるその歴史の半分近くは、オリンピックでたった1個の金メダルを取ることもできなかった、スポーツ弱小国であった。

 その韓国がなぜ、スポーツにおいて急成長を遂げ、日本を凌ぐスポーツ強国になったのか。モントリオール五輪で48年の建国以後初の金メダルを獲得したレスリングの梁正模、ロス五輪で韓国柔道としては初の金メダルを獲得した河亨柱、バルセロナ五輪の男子マラソンで優勝した黄永祚ら、韓国スポーツの一時代を築いた英雄たちを取材する一方で、スポーツ行政に関わった人たちへの取材や資料収集、それに当時の時代背景なども交えながら、多角的に追った。

 韓国スポーツの一大転換点となったのは、64年の東京五輪であった。この大会に韓国は、224人もの大選手団を派遣しながら、銀2、銅1の成績に終わった。一方日本は、アメリカ、ソ連に次ぐ16個もの金メダルを獲得し、スポーツ強国に躍進していた。特に体が小さいハンディを猛練習で克服し、ソ連を破って優勝した、大松博文監督率いる「東洋の魔女」の活躍は、韓国にも大きな衝撃を与えた。

 当時、大韓体育会長であった閔寛植氏は、練習に打ち込める土台作りに心血を注いだ。66年には、「韓国スポーツ揺籃の地」と呼ばれる、韓国のナショナルトレーニングセンターである泰陵選手村を作り、練習環境を整えた。

 韓国がスポーツに力を入れた背景には、北朝鮮との緊張関係があった。スポーツは優劣がはっきり出るだけに、北朝鮮を上回る成績を収め、北朝鮮より先にオリンピックで金メダルを取ることは、至上命題であった。

 ところが72年のミュンヘン大会で、北朝鮮のリ・ホジュン選手(射撃)が金メダルを取り、韓国は先を越された。そこから韓国はエリートスポーツに特化し、金メダル獲得にわき目も振らず突き進む。70年代の大韓体育会長であった金澤寿氏は、メダリストに対する年金制度や兵役免除をなど、ニンジン政策を打ち出す一方で、練習は過酷を極めた。

 しかしながらその過程は、決して一筋縄にいかなかった。巡回コーチとして大松博文氏の指導を受けていた女子バレーボールの国家代表選手の中には、「人格を無視した大松氏の練習をこれ以上受けることはできない」と、代表から離脱する者も現れ、スパルタ式練習に賛否両論渦巻いた。

 それでも残った選手たちはモントリオール五輪で球技種目初のメダルとなる銅メダルを獲得し、この大会では、レスリングの梁正模選手が建国以来初の金メダルを獲得した。

 80年代に入ると、韓国は86年のアジア大会、88年のオリンピックのソウル招致に成功し、「体育立国」の道を進むことになる。当時盛んに使われた「克日」のスローガンの下繰り広げられた猛練習の結果、86年のアジア大会では、総合スポーツ大会では初めて日本を上回る成績を残し、88年のソウル五輪では、両国の立場は完全に逆転した。

 東京五輪の成果に安住して改革が遅れた日本に対し、韓国は日本から学びつつも、日本と同じことをしていては、永久に日本に勝てないと、プラスアルファを加えて、世界有数のスポーツ強国に成長していく。

 ソウル五輪から20年。アジアの地で3回目の夏季オリンピックが開催される。軍事政権時代、急速に成長した韓国のスポーツは、時代の変化の中で多くの歪を生み、またしても転換点を迎えている。

 この本は、単なる韓国スポーツ史ではなく、スポーツを通してみた韓国の60年史であり、隣国の姿を通して、日本のスポーツのあり方を考えるものでもある。北京五輪と韓国の建国60年を控えたこの夏を前に、ぜひ読んでほしい。