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2008/05/16

<韓国文化>大地に根ざし、人間の運命描く

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        在りし日の朴景利さん

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               安宇植さん

 昨年夏に肺がんと診断された後、自宅療養を続けていた小説家の朴景利(パク・キョンリ、写真・上)さんが、5日死去した。享年81歳。朴さんは大河小説『土地』で知られる、韓国文学を代表する女性作家の一人だった。朴さんと親交があり、『土地』の第1部を翻訳した在日の文芸評論家、安宇植(アン・ウシク、写真・下)さんに文章を寄せてもらった。

 朴景利氏は1926年10月28日に慶尚南道統営郡、現在の忠武市で生まれた。1945年3月に晋州高等女学校を卒業した。日本の朝鮮支配を体験した世代に属しているが、このことは彼女の文学、とりわけ『土地』を理解するうえでのキーワードとなるだろう。

 文壇にデビューしたのは1955年、文壇の大御所的な存在だった金東里(キム・ドンニ)の推挽を得て、月刊誌『現代文学』に発表した「計算」「黒黒白白」「玲珠と猫」「不信時代」などの短編小説で力量が認められたのである。これらはもっぱら、その2年前の1953年まで続いた韓国戦争で夫に死なれ、姑と暮らしながら一人娘を育てねばならなかった戦争未亡人が、戦後社会の不条理に満ちた現実に直面して恨(ハン)の世界へ逃げ込みながらも、さまざまな角度からこれを告発した作品であった。ちなみにこれらの戦争未亡人は、早くに夫と死別し、後に詩人金芝河(キム・ジハ)と結婚する一人娘・玲珠を育てた、彼女の自画像でもあった。

 やがて1957年の『漂流島』をはじめ、『聖女と魔女』『わが心は湖』などで長編小説にまで領域を広げた彼女は、孤独で哀しみの癒えない若い戦争未亡人いや女性たちの、巨大な運命の力の前にひざまずく脆さを描いていったが、1962年の長編『金薬局の娘たち』をきっかけに恨の殻を破り捨て、社会と現実への意識を拡大させ、その技法と題材もまた多様化し、作品の性格に大きな変化をもたらした。言い換えれば、戦争未亡人としての被害意識からきた自己憐憫的な世界に生じた悲哀を乗り越え、それをすべての人間の根源的な宿命として社会的、歴史的な現実の中に投影させ、これを客観的に観察するようになったのである。

 韓国戦争を初めて正面にすえた1964年の長編『市場と戦場』にも、運命論的としか解釈できない多くの矛盾と葛藤による人間の破滅が描かれてはいるが、それよりも韓国戦争が持つ悲劇性の根源を客観的に把握し、人間の愚かしさによる不幸を描いて、『金薬局の娘たち』とはまた別の人生観を展開することができたのも、その結果であった。このほかに1960年代には、『秋にきた女人』や海上で開かれる魚市を題材とした『波市』などの長編を、『朝鮮日報』と『東亜日報』に連載して大衆的な作家として人気を博した。こうした蓄積を通して、彼女はいよいよ次なる国民的な大河小説『土地』を紡いでいったのである。

 韓国最初の大河小説『土地』五部作は、四百字原稿用紙一万五千枚に、『現代文学』1969年9月号から94年8月15日にかけて、25年間書き継がれた。しかもその舞台は、彼女の故郷統営からほど近い、河東郡岳陽面平沙里に屋敷を構える大地主の崔参判邸で、この家の四代にわたる栄枯盛衰の物語がここに描かれた。とはいえ、この小説の中で崔家の広大な田畑と屋敷を奪い去り、唯一の遺児曙姫を今日の中国東北へと追いやった張本人は、民族に背を向けて親日派に成り下がった遠戚の一人であり、「日帝」ではなかった。にもかかわらず、延世大学国文科教授の鄭ヒョンギはこの作品を、「日本論として書かれた小説」(週刊朝日百科・名作への招待『世界の文学』112号、「韓国・朝鮮の文学Ⅱ」朝日新聞社刊)だとしている。次の一節がそれを集約しているのではなかろうか。

 「朝鮮民族だというそれだけの理由で人間の尊厳が無視され、耐え難い屈辱をも甘んじなければならなかった暗い時代を、作家は決して忘れていなかった。そんな時代に自我に迫り来る屈辱を全身ではね除けるために、身もだえすることで自分を守り通した人がいることを、この小説ははっきりと見せてくれる」

 80年代の半ばに、福武書店編集部からの依頼で、筆者は『土地』第1部の翻訳を始めたことがある。そのためには当然、版権を手に入れる必要があった。協力してくれたのは朴景利の信頼厚かった作家の尹興吉(ユン・フンギル)と、彼と親しかった作家中上健次。彼らの根回しのおかげで、スムーズに翻訳・出版の諒承を得た。

 忘れることができないのは、主な登場人物の漢字表記をどうするかなど、打ち合わせのために彼女を訪ねたときのことである。ヒロインの曙姫など主要な登場人物の漢字表記を、彼女はすでに決めていた。そればかりか、これらの人物名を用いて、数百枚もの二百字詰め原稿用紙に自作の『土地』を、日本語で翻訳しているではないか。

 初めにも触れたように、彼女は日本が敗戦した年の3月に、5年間の晋州高等女学校を卒業している。したがって日本語に堪能なはずであった。とはいえそれは四十余年も前のこと、その間に言葉も変化する。作家として、それを知らぬはずがない彼女のこうした徒労に、筆者は返す言葉を失くしたのである。言葉とりわけ日本語へのこうした考え方の違いが、筆者に中途で翻訳から手を引かせることになったが、その後も彼女が『土地』を日本語で翻訳していると、ソウルからの噂が絶えなかった。

 朴景利の日本語訳『土地』への執着、ここから、彼女の日本への愛情、つまりアンビバレンスな心情を読み取ることができるのではなかろうか。それは彼女が、原州で畑に囲まれ、土いじりをしながら暮らしている生活について、あるとき筆者にこんな内容のことを語っているからである。

 「ソウルでマンション暮らしをしていては、いい作品は書けない。土から離れたら人間は生きていけない」。その土をかつて韓国人は、「日帝」によって侵されたのであった。実際に、訪れるとたいてい庭先には土いじりをしている彼女の姿があった。それだけにこの言葉は、いかにも『土地』の作家らしくて印象に残った。娘婿の金芝河とともに朴景利が、日本に対して頑ななまでに心を開こうとはしなかった理由も、ここに求められるのではなかろうか。(文芸評論家)