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2009/05/15

<韓国文化>演劇通じ韓日の相互理解を

  • 演劇通じ韓日の相互理解を

    3月に都内で上演された韓国現代戯曲『凶家』(撮影=真野芳喜)

 日韓演劇交流センター主催のシンポジウムがこのほど行われ、韓国から来日した金義卿さん(キム・ウィギョン、劇作家、前BeSeTo演劇祭韓国委員長)が「韓日演劇交流の歴史と未来 交流史の試論として」と題して報告した。その要旨を紹介する。

 日本の現代演劇が韓国に紹介されたのは、1972年、状況劇場(唐十郎主宰)の『二都物語』だった。彼らとともに金芝河の『金冠のイエス』も同時に上演された。当時、韓国は戒厳令下で、『二都物語』は公演倫理委員会の許可を得ないゲリラ公演だった。

 78年、韓日両国の演劇指導者たちの相互訪問が行われた。この年の一月初め、韓国演劇協会理事長の李眞淳(イ・ジンスン)は、日本の演劇界を視察するために出国した。前年に韓国を訪問した日本演劇協会理事の菊島隆三の準備によるものだった。6月に李眞淳は再び日本を訪問したが、このときは劇作家の車凡錫(チャ・ボンソク、韓国演劇協会理事)も同行した。そして10月、日本現代演劇協会理事長の福田恆存が韓国を訪問した。李と福田の両氏は一緒に政府当局者と会い、両国の演劇交流の出帆を論議した。

 79年10月、劇団自由は劇団昴の『海は深く青く』を招聘した。前年に開館した世宗(セジョン)文化会館小劇場での公演は、韓日演劇交流の第一号と言ってもいいだろう。だが朴正煕(パク・ヒョンヒ)大統領暗殺事件と重なり、注目されなかったのは惜しいことだった。79年11月、劇団自由は劇団昴の招聘で『何になるというのか』(朴牛春(パク・ウチュン)作/金正鈺(キム・ジョンオク)演出、三百人劇場)の東京公演を実現させ、両者による相互訪問公演が叶った。80年11月には、呉泰錫(オ・テソク)の『草墳』(池袋・文芸座ル・ピリエ)公演がその後をつないだ。これらは、韓日演劇交流の先駆けといえるものだった。

 81年は韓国の演劇界が新たな飛躍を試みた年だ。この年の3月、韓国初の国際演劇祭となる「第三世界演劇祭」が開催された。また、国家的な行事としては初めて日本の公演が韓国で紹介された。観世能楽団の『翁』とKSEC(国際青年演劇センター、若林彰主宰)の『海峡』がそれだ。

 85年韓国俳優が出演するつかこうへい作・演出の『熱海殺人事件』が日本と韓国の4都市で公演された。韓国での公演は相当の反響を引き起こした。劇団自由は沖縄で開かれた東洋演劇祭に2度も参加している。文化芸術祝典の一環である国際演劇祭には鈴木忠志率いる劇団SCOT『トロイアの女』が招聘された。これはそれまでの小劇場規模の交流を超える初の試みだった。『トロイアの女』は韓国の観客たちを魅了した。

 ソウルオリンピックを記念して、ソウル国際演劇祭が88年8月16日から10月5日まで開催された。この演劇祭は政府の助成がしっかりしていたので、比較的余裕のある予算を確保できた。

 韓国政府は91年を「演劇映画の年」に指定した。韓国演劇協会はこれに応えて「アジア太平洋国際演劇祭」を組織した。劇団銀河鉄道『八犬伝』と初来韓の東京演劇アンサンブル『桜の森の満開の下』が目を引いた。

 このように優れた作品を招聘できたのは、予算と時間、そして両国の演劇人たちに芽生えた友情が、その真価を発揮しはじめたからだと考える。

 韓日間の交流が活発になるとともに多様な性格のフェスティバルが準備された。93年には第一回「日韓ダンス・フェスティバル」が行われた。このように多様な活動が韓日の間で起こった。背景には、この間、頻繁に行われてきたシンポジウムやワークショップなど、個人とグループによる活動の蓄積があったからだろう。

 タイニイアリス・フェスティバルは90年代以降、数多くの韓国作品を招聘し、韓日演劇交流の先頭に立った。

 94年はソウル定都600周年の年だった。私はこの定都600年を韓国演劇とつなげることはできないかと考えた。ある朝、インスピレーションのようなものが頭の中をよぎった。あらゆる妄想が私の頭の中で渦巻き、BEijing(北京)SEoul(ソウル)TOkyo(東京)を組み合わせたベセトを思いついた。

 ベセトは94年に出帆し、2008年まで15回開催した。交換作品は少ないが、共同製作を試みた功績を持っている。太田省吾『水の駅Ⅱ』、韓国での韓日中3カ国合作『春香伝』、鈴木忠志『廃車場で』などが、その代表例だ。演劇の稽古を通じて民族的な相互理解が深まった。

 2002年両国政府が指定した「韓日・日韓国民交流年」では、多くの日本の作品が韓国を訪れた。

 また、2000年から日本の劇団による韓国公演がめっきり増えた。2000年10作品、2001年8作品、2005年16作品。しかし、2006年は「アジア演出家ワークショップ」だけが開催され、2007年は残念ながら一作品もなかった。

 21世紀になり目につくのは、日本の戯曲の韓国語公演が普通になったことだ。60年代に劇団星座が『羅生門』を発表し日本戯曲上演の先がけとなったが、当時は大きく注目はされなかった。85年には劇団民衆劇場が安部公房の『友達』を上演している。2000年代には井上ひさし、柳美里、別役実などが韓国の劇団によって紹介された。これ以後、このような公演は実験ではなくなった。韓国と日本の国民感情が徐々に緩和しているのだろうか、そんな面もなきにしもあらずだが、何より日本で演劇を勉強した韓国人の演劇学徒たちが増え続けていることも、その理由だろう。

 純粋演劇以外のフィジカルシアター、マイム、パフォーマンスという幅広い概念が勢いづいたこと、ダンス公演が増えたことも特記すべきことだろう。これらを媒介に韓国と日本で若者たちの出会いが広がっている。

 もうひとつ指摘すべきことは、日本が結成した日韓演劇交流センターの影響で韓国にも韓日演劇交流協議会が誕生したことだ。毎年シンポジウムやリーディング公演などを開催し、両国の演劇人を集めた交流の努力が、爆発の時代を到来させたと信じる。

 私は今後、両国の演劇が歴史問題にさらにアプローチすることを提案したい。(これまでも)平田オリザ、鄭義信、青年座や木山事務所などの作品が、このような傾向を見せていた。(日本の作家が韓国の独立運動家をテーマにした作品を作ったように)韓国の作家が日本人を主人公にした作品を書いたなら、これを見る日本の観客の関心も変わってくるだろう。