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2009/02/27

<韓国文化>薩摩藩の中に存在した"朝鮮"

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    「白薩摩貝形盛器」 1786年 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵

 「日仏交流150周年記念特別展 薩摩焼 ~パリと篤姫を魅了した伝統の美~」が、東京・両国の江戸東京博物館で開催中だ。薩摩焼は豊臣秀吉の朝鮮侵略時、島津藩17代島津義弘が朝鮮陶工を連れ帰ったのが始まりで、400年以上の歴史がある。徳永和喜・鹿児島県歴史資料センター黎明館調査史料室長の「薩摩の外交」(「薩摩焼展図録」)より「朝鮮出兵と朝鮮文化移入」を紹介する。

 朝鮮焼物が薩摩に伝えられた経緯は、豊臣秀吉による東アジア征服構想のもとに行われた朝鮮侵略戦争が契機となったことは周知の通りである。

 この戦争は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)と呼ばれ、文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけてのことであった。慶長3年、戦争遂行困難ななかで秀吉の死を契機に撤退が決まり、撤退時に被虜として朝鮮人陶工を連行したことによって、薩摩地域に朝鮮陶器の技術が伝えられることになった。

 薩摩に連行された陶工達の歩んだ歴史は二つに分けられる。地域に融合した人々と藩の保護を受け地域社会を形成した「苗代川」(現在は美山)の人々である。薩摩藩の「苗代川」が特別な歴史的意味をもつ理由は、同じように朝鮮陶工を連行した九州諸藩諸地域と村落形成過程や藩との関係がかなり違うことにある。

 その特質を内藤雋輔(ないとう・しゅんすけ)氏は「多くは早く日本の風土や民俗に同化融和してしだいに朝鮮の氏姓を捨て、日本人と一体となっているのであるが、旧薩摩藩のうち、特に苗代川地区とその分派の笠之原と萩塚の被虜人のみが藩主の特別な保護政策のもとに故国の旧風を保存し、集団生活を長く営んで明治維新におよんでいることが著しい対照をなしている」と、「苗代川」の地域性を指摘し、「苗代川」地域形成を藩との関わりで論じた。

 これまでの研究史では、朝鮮出兵により連行されてきた朝鮮の人々によって形成された「苗代川」村落は藩の保護のもとに異例の陶工による職能集団として認識されてきた。だが、内藤氏は論考で、「苗代川」地域社会が持つ文化技術は、これまで論じられてきた焼物だけではないことを指摘している。他にも後述する朝鮮通詞(通訳)とその体制、幕末薩摩藩の代表的輸出品である樟脳(しょうのう)精製技術、石工技術の存在、蜂蜜技術など今後研究すべき素材があるように思われる。

 また、関ヶ原に参加した苗代川居住の朝鮮人(陳休八)、島津義久に殉死した朝鮮人(仙朝坊、仙朝=朝鮮か)、これらの苗代川朝鮮人や側近朝鮮人の存在は、「苗代川」地域が陶工だけでない広がりをもった人々の集団であることを示している。それらのひとつ一つの遺志が何を語ろうとしているのか。異国に身を置きながらも自らの死によって、何かを守ろうとしたのではないか。

 薩摩藩に朝鮮通詞が存在し、活動していたことはあまり知られていない。朝鮮通詞の制度は朝鮮との貿易を幕府から許可された対馬藩以外にみられないと思われていたからであり、薩摩藩に朝鮮通詞が存在していたことは驚くことであるが、意外にも薩摩藩朝鮮通詞はその職制や役料、漂着朝鮮船への派遣など制度として確立していたといえるのである。

 朝鮮通詞という職掌自体、苗代川という地域に付随した職能集団から派生し、ある一人の人物の熱意が朝鮮通詞という職を興し、それを受け継ぐ形で指南家ともいえる家柄が生まれた。それは朝鮮通詞の系譜とも呼べる李家の努力によるもので、その功なって苗代川の朝鮮語は維持され、同時に藩も漂流民救助の必要から朝鮮通詞の確保の目的に合致した結果、朝鮮通詞の養成や継承が藩の全面的支援のもとでなされた。そのため、李家の継承者が代々通詞を務めたことで歴代通詞と呼ばれ、世襲的な通詞制度が堅持された。

 朝鮮通詞の役割は通訳という補助的職務であるようにみえるが、貿易や漂流民救助において重要な職掌であったことはいうまでもない。頻繁に往来する唐船とは違い、極めて稀に漂着する朝鮮船を対象とするものではあったが唐通事同様に朝鮮通詞への藩の命令系統や対応する諸役、漂着現地での対応や聴取内容の報告の手順などは漂着唐船に準じた体制であった。

 また、藩の学問の殿堂造士館講堂での年2回の朝鮮語対談をはじめ、藩は異国方書役の役人2名に朝鮮語学習のため苗代川に30日の長期にわたる出張を命じるなど藩庁の力の入れようも窺われる。このように限られた状況史料から推察することになるが、これらの事情を勘案すると、朝鮮漂流漁船だけに対処する組織体制というより、もっと広汎な朝鮮船の往来を物語っていることが考えられるのではないだろうか。

 近世薩摩藩では朝鮮通詞に加え、唐通事、幕末には西洋通詞(蘭通詞から後には英通詞)の養成がなされた。このことが、薩摩藩が近代西洋文化を導入することを可能にしたのであり、藩による語学教育・藩校教育・郷中教育などの教育制度によって支えられていたといえるのである。


■特別展「薩摩焼展」

日時:開催中(3月22日まで)
場所:江戸東京博物館1階展示室
料金:1000円
℡03・3626・9974
*3月7日午後2時から記念講演会「島津の雅びと薩摩焼」。受講料1000円。