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2010/01/22

<韓国文化>漆芸の美を韓日に伝えたい

  • 漆芸の美を韓日に伝えたい①

    チョン・ヨンボク 1952年韓国釜山生まれ。20歳で漆芸作家を志す。88年東京の目黒雅叙園から漆芸作品の修復と作品作りを依頼され来日。2004年岩手漆美術館を開館。

  • 漆芸の美を韓日に伝えたい②

          2009(c)全龍福

  • 漆芸の美を韓日に伝えたい③

    2009(c)全龍福

 漆芸作家の全龍福(チョン・ヨンボク)さんの個展「萬年の輝(かがやき)」が東京に続き大阪の韓国文化院で開かれ、好評を博している(2月6日まで)。漆芸にかけた思いを語った全さんの講演要旨を紹介する。

 私は韓国の釜山で生まれ育った。目黒雅叙園の漆塗りの作品、螺鈿(らでん)細工の製作・復元・補修に取り組んだのは、ソウル五輪が開かれた88年、36歳の時だ。韓国文化院で25年前、私の作品展があったときに、目黒雅叙園の担当者が訪れたことがきっかけだった。

 88年に来日し、漆を採取するための樹木が生育しやすい岩手県下閉伊郡川井村に家族と70人の弟子を引き連れて住み着き、約5000点の作品修復と、螺鈿に蒔絵を施した漆芸壁画、そして目黒雅叙園のエレベーターの螺鈿装飾に取り掛かった。

 当時はまだ韓国と日本の交流が少なく、ましてや岩手の山村ならなおのことだった。小学校全体で70人ぐらいしかいないところに、私の娘2人が通うことになった。娘たちは日本語がまったくわからず、日本の子どもたちから「朝鮮人」とからかわれたこともあり、何とかしなければいけないと思った。

 そこでその日本の子どもたちを韓国に連れて行って、韓国のことを伝え、幼いときから国際人に育てようと考えた。親や教職員一人ひとりに会って説得した。子どもたちにホームステイを体験してもらったが、最初はホームシックで泣き出す子どもたちもいた。でも日が経つに連れて打ち解け、日本に戻るときにはホームステイ先の人たちと別れを惜しむまでになった。子どもたちはその中で触れ合いと異文化理解の大切さを知った。この活動は現在まで続けており、村の学校の貴重な事業となっている。

 来日してすぐに震度5の地震を体験したが、これで人生が終わるのかと思うほど驚いた(笑)。こういう地震の国だから、石ではなく木の文化となり、湿度の高い日本で木の製品を長持ちさせるために、漆を塗ることが必要だった。だから日本で漆文化が発達した。

 目黒雅叙園の仕事には延べ10万人が関わり、3年に及ぶ大事業だった。エレベーターの漆と螺鈿の装飾は最初反対されたが、メーカーと消防署の関係者に漆の優秀性を実証して見せることでクリアしてきた。漆芸作家は大勢いるのに、異国の韓国人にまかせてくれた日本人の文化理解力には、いまも感謝している。

 漆は縄文時代から存在している。その漆は簡単に採取できない。木を25年間育てて、その木の一部に傷を付けて、そこから出るわずかな量が漆になる。漆を重層塗りして、複雑な色合いを出す、それだけ複雑だからこそ、漆製品は世界で称賛されてきた。

 日本で漆文化はいま厳しい状況にあるが、私は大きな仕事をまかせてくれた日本に感謝し、漆芸の素晴らしさを日本に還元したいと考えている。

 私の自伝的エッセー「魂」が韓日で発売され、2005年に韓国で開かれたAPEC(アジア太平洋経済協力会議)では、私の作品が会場に展示され、世界の首脳に観ていただく機会も得た。また漆芸を使った腕時計に挑み、メーカーを説き伏せて研究・開発し2008年に発表した

 私は文化を残すことこそが、芸術家としての生きた証と考えている。だからこそ毎回新しい作品を作り続けている。

 今年から韓国でも若手育成に取り組んで行きたいと思っており、4月にはソウルで1カ月に及ぶ個展も予定されている。韓国の学生を日本に連れてきて韓日の若者が友情を深める交流事業も行いたい。漆芸作品を通して韓日の懸け橋の役割を今後も務める覚悟だ。