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2012/07/06

<韓国文化>朝鮮通信使の音楽に触れる

  • 朝鮮通信使の音楽に触れる①

    とくまる・よしひこ 聖徳大学教授・お茶の水女子大学名誉教授。音楽学、とくに民族音楽学と音楽記号学を専攻。著作に『音楽とはなにか 理論と現場の間から』(岩波書店)など。

  • 朝鮮通信使の音楽に触れる②

    雅楽「納曽利」

  • 朝鮮通信使の音楽に触れる③

    大吹打(テチタッ)

 朝鮮王朝から江戸幕府に派遣された朝鮮通信使の音楽に、江戸時代の日本民衆は熱狂した。その歴史を振り返り、当時の音楽を再現する「紀尾井 江戸邦楽の風景 第6回朝鮮通信使」が、今月中旬、東京・四谷の紀尾井ホールで開かれる。同公演について、徳丸吉彦・聖徳大学教授=お茶の水女子大学名誉教授に寄稿してもらった。

◆「日韓雅楽交流通して関係深化を」 徳丸 吉彦(聖徳大学教授・お茶の水女子大学名誉教授)◆

 朝鮮通信使とは、室町幕府から江戸幕府の終わりまで続いた使節の総称で、朝鮮王朝が日本と信義を通じるために派遣した使節を言う。江戸幕府が成立してからも、12回来日している。今回取り上げるのは、第8回の朝鮮通信使である。これは、徳川家宣が将軍になった祝いに行われたもので、来日したのは1711(正徳元)年のことである。この使節は合計500人で、もっとも規模が大きかった。

 この時は、正使として趙泰億が選ばれた。科挙を通った高級官僚で、来日した時は30代だったが、学識の深さ、漢詩や文章のうまさで、日本人に感銘を与えた。

 使節たちは、当時は漢城と呼ばれていたソウルを出発して、陸路で釜山に向かった。そこから対馬に渡り、壱岐、赤間関(現在の下関)他を経由して、瀬戸内海を航行し、大阪についてから、日本の船に移り、京都から江戸までを陸路で進む。そして、国書を江戸で将軍に提出するという任務を終えると、対馬経由で戻る。第8回の場合は、漢城を出発して漢城に戻るまで、300日弱の旅をした。対馬で儀礼が行われた最後の回(1811年)を別にすれば、使節は日本国内をゆっくり移動して、多くの土地に滞在して、それぞれの土地の藩から接待を受け、人々と交流した。

 その頃の朝鮮王朝では、国王や高官が外に出るときには、音楽を演奏させる規則があった。一般的に、国王の前方に、管楽器と打楽器を中心にした大きな音のグループが歩き、後方には、細楽といって、弦楽器を含む小さな音のグループが歩いた。音楽に関するこの規則が日本滞在中も守られたので、使節が通過した地域や江戸の人々は、音楽を聞き、見慣れない楽器を見て、大いに関心を持った。そのため、音楽家や楽器を描かれたものが残された。例えば、ダブルリードの楽器、法螺貝、金属製のラッパ、銅鑼などである。

 今回の演奏会では、こうした行進の音楽を、釜山を出立する前に行われた儀礼的な剣舞とともに、紹介しようと思う。

 1711年の朝鮮通信使は10月に江戸に入った。そして、11月3日にはもてなしを受けた。使節をもてなすための音楽は、それまでは能楽だった。しかし、この回の実質的な責任者であった新井白石という儒学者は、雅楽を使った。唐から伝来した様式による唐楽(とうがく)とともに、朝鮮半島から伝来した様式による高麗楽(こまがく)も上演された。唐楽の《陵王》(りょうおう)に続いて、セットで演奏されることが多い高麗楽の《納曽利》(なそり)が演奏会の最後を飾った。

 白石は、それぞれの曲の由来を紙に書いて説明したので、使節団のメンバーも、とくに高麗楽には感動したようだ。自分の国から日本に伝えられ、自分の国ではもう伝承されていない、という事実を知ったからだろう。

 そこで今回の公演では、伶楽舎による《陵王》に続いて、《納曽利》を韓国国立釜山国楽院の音楽家たちに演奏してもらう。日本と韓国の雅楽の比較演奏は2002年のサッカーワールドカップ日韓共催大会を記念する演奏会でも行った。しかし、日本の雅楽曲を韓国の楽器で演奏するのは、今回が初めての試みで、どのような響きがするか、楽しみだ。

 今回の合同演奏が、両国の間の豊かな関係を見直し、新しい関係を築くことにつながることを願っている。


■紀尾井江戸邦楽の風景 第6回「朝鮮通信使」■

日時:18日、19日午後6時30分
場所:紀尾井ホール(東京・四谷)
料金:一般4000円、学生2000円
電話:03・3237・0061