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2008/08/15

<韓国経済>光復63周年・韓国経済支えた産業

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    現代自動車のドック

 日本の植民地支配から脱して63年。政府樹立から60周年を迎えた韓国。その過程は茨の道だった。韓国戦争の廃墟から立ち上がり、貧困から脱出するため必死の努力をしなければならなかった。そして、国民の血と汗の結晶が1970年代の「漢江の奇跡」に結実した。97年の通貨危機という未曾有の経済危機も克服、半導体輸出世界1位、造船受注世界1位、鉄鋼生産世界5位、自動車生産世界5位などと産業の競争力・生産力は続々と世界トップレベルに伍している。GNI(国民総所得)でみた経済規模は世界13位を誇るまでに発展した。

◆経済開発5カ年計画◆

 韓国戦争の廃墟から立ち上がり、今日の経済発展を遂げることができたのは、計画経済の導入が大きかった。

 1962年から始まった第1次経済開発5カ年計画は、当時成功の確率はゼロだとも酷評された。戦後、途上国で計画経済が成功した国はなかった。

 事実、61年11月試案を携えて訪米した朴正熙・国家再建最高会議議長(当時)に対して、米国務省高官は「7・1%成長?」とあまりに高い成長目標に驚きの表情をみせたほどだ。

 軍事クーデターで政権を握った朴議長は、貧困の原因を「事大主義と怠惰」にあると考え、経済開発を国家の最優先課題に定めた。

 まず取り組んだのが工業団地建設。当時貧しい漁村に過ぎなかった蔚山に工業センターをつくり、石油化学関連工場を入居させた。

 「漢江の奇跡」の幕開けである。以降、4次にわたる5カ年計画の成功で、2ケタの高度成長を実現、産業基盤を固めた。

◆セマウル運動◆

 韓国は1960年代前半まで前年に収穫した穀物を食べ尽くし、春になると木の根や幹をかじる絶糧民の姿がみられた。人口の70%を占める農村は疲弊し、農業生産力は極めて低かった。

 70年2月、このような農村を変革しようとセマウル(新しい村づくり)運動が起こった。「勤勉・自助・協同」をスローガンに掲げ、農民の生活態度革新と環境改善、所得増大を通して、これまで経済開発から取り残されてきた農村の近代化を実現しようというものだ。朴正熙大統領自らが「セマウル運動の歌」を作詞、作曲しており、力の入れようが分かる。

 運動は旋風を巻き起こし、農家間に競争も呼び起こした。

 71年に一戸当たり35万6400ウォンだった農家所得は81年に368万7900ウォンに増え、コメの自給などを達成した。セマウル運動を学ぼうと海外から視察団が相次いだ。

 韓国ギャラップの世論調査によると、「韓国を変えた重要な出来事」のトップにセマウル運動をあげている。だが、農村人口は2割を切り、輸入自由化時代を迎えて、新たな試練を迎えている。

◆京釜高速道路開通◆

 1968年2月1日、韓国近代化の象徴、京釜高速道路を着工した。

 資本も技術もない状況で「成せばなる」の精神を押し通した朴正熙大統領の指揮のもと、着工からわずか2年ほどで開通した。しかし、開通までの道のりは決して平坦ではなかった。

 64年に西ドイツを訪問した朴大統領は、高速道路のアウトバーンを見て韓国での高速道路建設を決心した。

 そして、1967年の大統領選挙の公約としてソウルと釜山を結ぶ高速道路の建設を打ち出した。

 しかし、当時1人当りのGNPが142㌦だったことから高速道路建設反対の世論が巻き起こった。それでも、朴大統領は計画を強力に推進し、スケジュールさえ空いていればジープに乗って現場を激励した。

 1970年7月7日、総延長428㌔㍍(現在は直線化などで416㌔㍍)、305の橋(現在353)と12のトンネルのある京釜高速道路がついに全線開通した。

 計画より1年前倒しとなる超高速工事となった。

 この京釜高速道路の開通で全国が初めて「一日生活圏」として結ばれ、本格的な自動車社会へ突入した。

◆一貫製鉄所建設◆

 1967年、時の朴正熙政権は、産業立国をめざすため、国家プロジェクトとして原料の供給から加工、出荷までを一カ所で行う一貫製鉄所の建設を決定した。一貫製鉄所の建設は巨額の資金と長年蓄積された技術と経験がなければ不可能だ。

 こうした状況で国際社会から無謀だとの非難を浴びながら、70年に慶尚北道・浦項に浦項製鉄所(現ポスコ)を着工、73年に粗鋼生産103万㌧の第1期設備を完工して以来、第4期まで拡張を続け、910万㌧体制を築いた。さらに、87年には第2の一貫製鉄所を全羅南道・光陽に着工、こちらも第4期まで拡張し、浦項製鉄所と合わせて年産3300万㌧規模の世界的鉄鋼メーカーに成長した。ポスコはこのように、良質の鉄鋼製品を供給することで、韓国の自動車、機械、電機・電子など基幹産業の発展を支え、経済成長を後押ししてきた。

 また、これまで電気炉中心だった現代製鉄は現在、2010年の完工をめざし忠清南道・唐津に一貫製鉄所を建設中で、ポスコに次ぎ国内2番手、世界10位以内の鉄鋼メーカーとなる。今後も「鉄鋼韓国」の躍進が続く見通しだ。

◆輸 出◆

 1977年12月22日、韓国政府主催で「輸出の日」記念式が盛大に開かれた。

 この年、韓国の輸出が開発途上国で初めて100億㌦を突破し、記念式典は「やればできる」と自信と祝祭ムードにつつまれた。

 64年に輸出1億㌦を突破してから13年、72年に10億㌦を突破してからわずか5年。「輸出こそが国の生きる道」とのスローガンを掲げた「輸出立国」政策が大きな果実を結んだ瞬間だ。

 朴正熙大統領は72年5月30日、輸出拡大会議を終えた後、側近に「輸出100億㌦を達成しようとすれば、どんな工業を育成しなければならないか」と問いただし、政策の焦点を輸出に集中するよう指示。同年12月に重化学工業育成と80年の輸出100億㌦達成を目標とする計画がまとめられた。

 当時、「とても現実不可能だ」との声もあがったが、輸出100億㌦は3年繰り上げ達成し、鉄鋼、造船、機械、石油化学などの重化学工業が育成され、これら産業が今日の韓国経済を支えている。

 輸出は「漢江の奇跡」のシンボルであり、その勢いは衰えを知らない。今年は4300億㌦に達する見通しであり、世界輸出ランクトップ10入りは目の前だ。

◆海外建設◆

 1973年、韓国にも石油危機が訪れた。同年10月には第4次中東戦争が勃発。第1次オイルショックは、重化学工業化を宣言したばかりの韓国経済にとって大きな痛手となった。1バレルあたり2・8㌦だったオイル価格は翌年3月には11㌦へと4倍に膨れ上がった。新聞の見出しには連日「値上げ」の文字が躍った。

 しかし、韓国は危機を機会に変える果敢な逆発想をすることになる。中東に払った石油代金を還流させようというものだ。50~60年代に軍施設の建設、そしてベトナム特需を経た国内建設企業は、その後中東に大挙して進出、韓国人労働者は78年のピーク時には14万人を超えた。こうして海外特需を経た韓国の建設企業は、現在世界80カ国で1000件以上のプロジェクトを遂行する規模に拡大している。66年には1100万㌦に過ぎなかった海外建設受注額は、昨年398億㌦に達し過去最高を記録した。

 一方、62年に20人余りの看護学生らが派遣されたのを皮切りに、66年から76年までに計1万300人の看護師が西ドイツに渡っていった。73年には、西ドイツ全土の病院で働く韓国人看護師は6000人を超えた。計8300人に達した韓国人鉱山労働者と看護師の送金額は年間5000万㌦に達するなど、一時はGNP(国民総生産)の2%に達した。

◆自動車◆

 1970年代、韓国の年間自動車生産は1万台に過ぎなかった。1974年、現代自動車はイタリアのデザインに、三菱自動車からの技術協力を得て、韓国初の純国産車「ポニー」を発売した。その後、ポニーを改良した「ポニーエクセル」を開発して輸出に乗り出し、当時6000㌦という破壊的価格で米国やカナダで人気を博し、北米市場で成功を納めた。

 その後、対米輸出の不振で一時、成長が鈍化したが、90年代に入ってからは順調に内需を伸ばし、安定的な成長を見せた。

 しかし、97年のIMF通貨危機以降、自動車メーカーの過当競争を解消するため、構造調整期を実施、現在では、現代・起亜、GM大宇、双竜、サムスンの3社、1グループに再編された。

 韓国の自動車産業は現代・起亜自動車グループを中心に現地化を急速に進め、米アラバマ工場をはじめ、インド、中国、スロバキアなど世界各地にネットワークを広げている。

 また、2012年には海外生産能力が国内生産能力を抜き、世界ビッグ3入りをめざしている。

◆電 子◆

 1960年代に入り、朴正熙大統領は米コロンビア大電子工学科の金玩熙教授を大統領府に呼び、トランジスターを前に「韓国も電子工業を育成したい。助けになってほしい」と話した。金教授はその後、「電子工業振興のための調査報告書」を大統領に提出した。これを受け、朴大統領は「電子工業総合5カ年計画」にゴーサインを出した。

 これを契機に韓国の電子産業は急速に発展、66年には金星社(現LG電子)が初の国産テレビを発売、サムスンも69年にサムスン電子工業を設立して、本格的な競争体制に突入した。

 65年に180万㌦だった電子産業輸出額は76年に10億㌦を超え、テレビをはじめ、ラジオなどの家電から、半導体、デジタルカメラ、携帯電話などのデジタル家電へと発展を遂げた。半導体輸出で世界1位を誇るほか、液晶ディスプレーでも世界1位のシェアを誇るなど、デジタルコリアの躍進が続く。

◆造 船◆

 いまや圧倒的な受注量で世界一となった韓国の造船。2位との差は歴然で、半導体や自動車なども世界市場で善戦しているが、造船の勢いほどではない。

 1969年、現代グループが造船業への進出を宣言した当時、韓国は造船に関する技術も資本もなかった。あるものは「造船王国」にするという情熱だけだった。鄭周永・現代グループ会長は、造船所が完成する前から多くの受注を得ることで、海外から資金を調達した。

 72年現代は、蔚山・尾浦湾に造船所を着工。造船所建設から10年あまりで世界トップだった日本企業を抜いて世界1位に上り詰めた。現代に続き、サムスン重工業や大宇造船海洋などが相次ぎ設立、韓国の造船業はますます活況を帯びた。

 2004年には増え続ける受注量に対応するため、現代重工業はドックや船台を使わない世界で初めてとなる陸上での造船を始め、今やドックでの造船と同じ速さで船の組み立てができるようになった。

 韓国の造船企業は今年5月、単一品目では過去最大(月間基準)となる計49億㌦の輸出を記録、半導体が記録した39億4000万㌦を塗り替えるなど躍進が続いている。

◆石油化学◆

 今や半導体や自動車、携帯電話、造船などと肩を並べるほどの輸出産業に成長した石油化学製品。韓国は原油国ではないが、原油を輸入して精製した石油化学製品の輸出は60年代から行っている。石油化学製品は日本や米国、中国などはもちろん、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)といった中東産油国へも輸出している。

 韓国の石油化学製品の輸出は、SKの前身となる大韓石油公社が1966年から始めた。1972年には、政府の第2次経済開発5カ年計画の核心事業として蔚山石油化学団地が竣工。高麗石油化学をはじめとする20社の石油化学企業が入居し、合成樹脂などを生産するコンビナート型の基礎素材産業工団として発展した。

 80年代に入ると石油化学製品の輸出は大きく増えた。80年代の初め、国内の石油需要が低迷し始めたことから、海外の原油を受託、精製、販売する加工輸出を始めたためだ。

 石油化学業界は2006年に206億2000万㌦の輸出額を記録し、初の200億㌦の大台を突破した。また昨年には234億4000万㌦の石油化学製品を輸出した。