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2003/07/11

<随筆>◇朴憲永のこと◇ 崔 碩義 氏

 朴憲永といっても今の在日で知る人は少ないだろうが、解放直後は朝鮮共産党の輝ける書記長としてその名は余りにも有名。私は韓国現代史を学ぶ過程でその名が妙に生々しく思えた。そこで朴憲永の故郷である忠清南道礼山郡新陽面を新聞記者の李在根氏の案内で訪ねて行ったことがある。

 新陽面は礼山郡のはずれで、公州に通ずる街道を車で30分も行ったところであった。

 一軒の大きな商家に入って朴憲永の生家について尋ねると、主人は首を振って「そういうことは区長のところに行って聞いてくれ」という。そこで、近くの区長宅を訪ねると、今度は「そんな人の名前は聞いたこともない」と、疑わしそうな目付きで、こちらをじっと窺う。どうやら今でもこのあたりでは「アカ」の頭目の名を口にすることを躊躇っているように思えた。いや、そうにちがいない。これでは郷土が生んだ名士にたいしていささか冷酷ではないか。

 らちが明かないので、李在根氏が面長に直接電話をかけて聞くと「今は生家も残っていないし、親類も住んでいない。ただ、数年前、朴憲永の娘の朴リバアンナさん(朴憲永の最初の妻、朱世竹が生んだ)が、モスクワから訪ねて来ましたよ」という返事だった。とりつくしまがないので、これ以上の追跡を断念する。

 韓国現代史において、朴憲永(1900~55年)ほど悲劇的な革命家は稀であろう。彼について語ることは永い間、北においても、南においてもタブーであった。これでは朴憲永も浮ばれない。

 彼の経歴は波乱万丈で、例えば、第1次朝鮮共産党事件(1925年)で日帝に逮捕されるや、獄中で佯狂(偽きちがい)を絶妙に演じて保釈をかち取り、モスクワに脱出するのに成功する。解放後は、南朝鮮労働党のトップとして激烈な反米人民抗争をくり広げた。

 朴憲永にとっての不運は、スターリンが無名の青年金聖柱(金日成)を北の共産党のキャップに指名したことから始まった。朝鮮戦争が終わった頃、金日成は突如、最大のライバルで、当時、共和国の副首相兼外相であった朴憲永を粛清する。しかも、あろう子とか、アメリカ帝国主義のスパイという汚名を着せて処刑するのは、スターリン時代からの共産主義運動の悪しき伝統なのだ。

 恐らく朴憲永が存在していたならば、今日のような金正日への政権世襲と歪な体制は生まれなかったと思うと残念でならない。のちに、日本でも所謂、朴憲永、李スンヨプの裁判記録『暴かれた陰謀』という小冊子が出回ったが、これは朴憲永を最初から米帝のスパイと決めつけて断罪した創作である。朴憲永を歴史的にいかに評価すべきかについては、立場の違いによって議論の分かれるところだが、そのうちに客観的な研究がなされてしかるべきであろう。


  チェ・ソギ  フリーライター。慶尚南道出身。立命館大学文学部卒。朝鮮近代文学専攻。