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2003/06/27

<随筆>◇ソウルの外国人墓地◇ 崔 碩義 氏

 地下鉄2号線の合井駅で降りて7、8分歩いたところに外国人墓地と天主教教徒の聖地、切頭山殉教記念公園がある。

 「切頭山」という地名は、1866年に始まる天主教に対する弾圧で、8000余名の教徒の首を刎ねたという史実に由来する。この周辺は、いわば江戸幕府末期の「鈴が森」のような刑場だったのである。

 同じく、開化派の金玉均も上海で洪鐘宇に暗殺された上、楊花鎮といわれたこのあたりで屍体を曝された。その時の「大逆不道玉均」と大書きされた不気味な写真を見た人も多いだろう。

 私は切頭山公園の敷地内を歩き回りながら、金玉均の遺跡のかけらのようなものでもないかと目を皿のようにして探したが無駄であった。それから、道路の向かい側に隣接する「外国人墓地」の方を廻った。

 墓地の正門をくぐると、プラタナスの大木とヒマラヤ杉に囲まれた広場がある。その広場の右側の坂道を登った小高い丘一帯が墓地で、左側に見える建物は、墓地を管理する韓国基督教宣教記念館だ。この外国人墓地の歴史は1世紀を超え、現在は「ソウル外国人墓地公園」と呼ばれる。墓の数は500余基、敷地はほぼ4000坪程度とのこと。横浜の外国人墓地に比べてその規模は小さい。

 墓地を縫って歩くと、西欧人特有の十字架でできた白い石のエキゾチックな墓が続く。ここに眠る故人たちの多くは、開化期に、はるばる遠い国から朝鮮にやって来て、この国の宗教、教育、医療、言論の各分野で近代化に尽くした功労者たちである。私は率直に言って、彼らの業績について多くを知らないことを恥じる思いで一杯である。次にその代表的な人物について見てみよう。

 ◇E・T・ベッテル(1872~1909年)。超鮮名はペイ説。最初はロンドンの『デーリーニュース』特派員として来たが、そのままソウルに永住して『大韓毎日日報』を創刊。ベッテルは1905年の乙巳保護条約の無効を主張し、日本の朝鮮侵略を糾弾した。

 ◇H・G・ウォンダウット(1859~1916年)。現在の延世大学校の前身、延禧専門学校の創立者。一族の墓がここに多い。

 ◇M・F・B・スクレンツン(1832~1909年)。朝鮮最初の女子教育機関である梨花学堂の創立者。

 ◇H・B・ハルバート(1863~1849年)。韓末に高宗に信頼されて外交顧問を務めたアメリカ人。1907年にハーグで開催された第2回万国平和会議に李儁ら3名とともに出席し、朝鮮の主権回復に努力した。

 ◇曽田嘉伊智(1867~1962年)。この墓地で唯一の日本人夫妻の墓。曽田はなが年、保育園を経営し孤児の慈父と慕われ、また3・1運動のとき逮捕された朝鮮人の救援活動に奔走した。彼が死んだとき、韓国の19社会団体が共同で盛大な社会葬で送った。


  チェ・ソギ フリーライター。慶尚南道出身。立命館大学文学部卒。朝鮮近代文学専攻。