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2003/05/16

<随筆>◇ソウル忘憂里公園墓地◇  崔 碩義 氏

 小高い山のふもとにある忘憂里公園墓地の管理事務所の前に着く。空は青く晴れ渡り、風も快かった。墓地内の循環道路を行くと行楽の人たちや派手な体操着を着てウォーキングを楽しんでいる人たちも結構多い。

 以前から、不遇の画家李仲燮(1916~56年)が忘憂里公園墓地に埋葬されていることは知っていたが、是非その墓を見ておきたいと思って、103535号という墓標番号を片手に探して歩く。やっと芝生におおわれた墓の傍らに「大郷・李仲燮画伯墓碑」と刻んだ黒い碑石を発見。李仲燮もまた国土分断による過酷な犠牲を強いられた1人である。

 彼は、朝鮮戦争のとき北朝鮮の元山から釜山に逃れ、さらに済州島の西帰浦に行って避難生活をした。やがて家族とも離散し、しまいには精神に異常を来たしてソウルの赤十字病院で孤独のうちに死んだ。ところで、最愛の夫人であった山本方子さんが、日本から墓参に来たと管理事務所で聞いて幾らかホッとした。

 一周、約5キロメートルの公園の循環道路を私はひたすら歩いた。そのうちに右側下方に、ゆったりと流れる漢江の素晴らしい景色が眺められた。墓場は本来陰気なものだが、ここは大変明るい。ソウル特別市が管理するこの忘憂里公園墓地には、現在1万8000基の墓があるが、ただし今は満杯とのことだ。間もなく同楽泉という水飲み場に出たので、そこのベンチでしばらく休む。この同楽泉付近に、韓国現代史を彩る有名人士の墓がかなり多く建っているので、これを見るのも今日の目的の1つである。

 ◇雪山・張徳秀(1895~1947年)。独立運動家、呂運亨の所謂、東京会談に通訳として同行したことで知られる。『東亜日報』初代主筆として活躍した。

 ◇竹山・チョ奉岩(1898~1959年)。元共産主義者、韓国初代農林部長官を経て国会副議長を務める。反共の絶頂期に「進歩党事件」に連座して、死刑になった。

 ◇万海・韓龍雲(1879~1944年)。僧侶であり仏教思想家、3・1独立運動のときの民族代表33名の1人。また、『ニムの沈黙』という詩集の評価は高い。

 ◇湖岩・文一平(1888~1939年)。民族主義的歴史家として著名。一時、上海に亡命した。後に『朝鮮日報』『中外日報』などで積極的に言論活動をする。

 ◇葦滄・呉世昌(1864~1953年)。開化思想家である呉慶錫の子で、3・1独立運動のときの民族代表33名の1人、古美術の権威で、『槿域書画徴』を著す。

 最後に浅川巧(1891~1931年)の墓に寄る。「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人ここに韓国の土となる」と刻まれた正面の碑石文は何度読んでも心洗われる思いがする。白磁の壺を模した八面の墓塔も清楚で美しい。

 浅川巧は、日本の植民地時代に韓国の自然と民衆を深く愛した類いまれな日本人である。
                  (本紙 2003年4月18日号掲載)


  チェ・ソギ  フリーライター。慶尚南道出身。立命館大学文学部卒。朝鮮近代文学専攻。