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2004/11/19

<随筆>◇元ハンセン病患者の補償要求◇ 崔 碩義 氏

 前回の「ああ、小鹿島」に続いて今回も小鹿島に関連する緊急な問題を取り上げたい。

 周知のように、日本では1996年になって「らい予防法」が廃止された。続いて長年、人権を侵害されて来た元患者たちが日本政府に謝罪と賠償を求めた裁判にも勝利した。そこでやっと政府は、過去の隔離政策の誤りを認め、患者たちに正式に謝罪した。こうして「ハンセン病補償法」が制定され、国籍、居住地を問わず、過去にハンセン病療養所に収容されたことのあるすべての人を対象に、必要な補償を実施するに至ったのである。

 ところが日本当局は、このたび、日本統治下の小鹿島更生園に収容されていた元患者たちの補償請求を対象外として却下した。恐らく国外にある療養所だからという理由からであろうが、これは全く話にならない不当なものだ。なぜなら立法の基本精神だけでなく、法の下の平等にも反する極めて差別的な処置であるからだ。

 なお、その該当者は、今では75歳以上の高齢者ばかりで約百名内外に過ぎないと聞く。一日も早く小鹿島の元患者たちにも補償請求が適用されることを願っている。支援の輪が広がることを期待したい。

 ところで植民地時代、朝鮮総督府は、朝鮮に世界一が三つあるといって大いに自慢したという。すなわち、一、金剛山の景勝、二、鴨緑江の水豊発電所、三、小鹿島の更生園である。最初の金剛山と二つ目の水豊発電所は成程と思えるが、三つ目の小鹿島の更生園の場合は、ハンセン病患者6千名を強制隔離する巨大な施設であることを殊更、自慢したものである。

 当時の小鹿島の療養所は、内地の「らい予防法」の隔離政策をより過酷に実施していたことでも有名である。ここでは強制労働と懲罰的な断種や中絶手術、または監禁などが日常的に行われていたといわれる。それに、日本の各地にある療養所と同様に、大正天皇の妻である貞明皇太后の「つれづれの友となりてもなぐさめよ、ゆくことかたきわれにかはりて」という歌碑までが建立されていたといえば、ほかのことは押して知るべしであろう。

 日帝下の小鹿島の実態については、最近、広島の滝尾英二氏が自著の『朝鮮ハンセン病史』の中で暴露している。

 一切の人権を無視され、虫けらのような悲惨な状況にあった小鹿島の患者たちも人間である以上、こうした不当な迫害に当然、反抗した歴史をもっている。例えば、1942年6月、更生園の4代目園長周防正季氏が、李春相という患者に刺殺されるという事件が起こったことなどもその1つであろう。

 だが、すべてがそうであった訳ではない。第2代園長花井善吉氏の場合などは、反対に大勢の患者たちから信頼と敬慕を受けていたのである。花井園長が島で病没するや患者たちはみんな号泣し、自分たちで募金して頌徳慰霊碑を建立したという事実もある。


  チェ・ソギ  フリーライター。立命館大学文学部卒。朝鮮近代文学史専攻。慶尚南道出身。近著に『金笠詩選』(平凡社・東洋文庫)がある。