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2004/05/14

<随筆>◇追憶の韓国スタンドバー◇ 産経新聞 黒田勝弘 ソウル支局長 

 ソウルで見かけなくなったものに、スタンドバー(韓国語風にいえば“ステンドゥバー”か)がある。ここでいうスタンドバーというのは、たいそう韓国的なもので、広い室内のワンフロアーを小さな空間に区切り、そのコーナー、コーナーが小さなカウンターを持って独立経営しているというスタイルだ。

 ミニバーがオープンスペースに集合したようなもので、それぞれにおネエさんがいて、客の相手をしてくれた。一人で出掛け、気に入ったおネエさんのところでよもやま話をしながら一杯という仕掛けだった。1980年代の中ごろまではたくさんあったように思う。当時で300万ウォンほどあればコーナーが持てたように記憶する。

 ああいうのがなくなったのは、やはり土地代や家賃が上昇しすぎたせいだろうか。おなじようなスタイルで、ソウルの新村の現代百貨店裏の路地に、ビルの地下のワンフロアーが屋台村というのがあったが、これも先年、なくなってしまった。韓国社会は一人で食べたり飲んだりができない、さびしがり屋の世界だから、一人で静かにかつ気楽に飲める格好の店がなかなかない。ぼくのようなソウル一人暮らしのつらいところだ。

 そんな意味で実は近年、数少ないお気に入りが職場に近いソウルの世宗文化会館裏にあって、よく行く。ロイヤル・ビル地下の「ザ・クラブ」というビアホールのような店だが、真ん中にコの字型の小さなカウンターバーがある。ぼくはここでいつもキープの「J&B」を水割りにして飲んでいる。

 この店がいいのは生のピアノ演奏をやっていることで、しかもリクエストOKなのだ。アマチュア風のまだ若いピアニストだが、彼女はぼくが来ると黙っていても必ず、韓国モノでは歌曲系の「懐かしき金剛山」を、洋風ポピュラーでは「LOVE IS A MANY SPLENDORED THING」をやってくれる。後者は周知のように、朝鮮戦争を舞台にした米国の従軍記者ウイリアム・ホールデンと香港の病院の看護婦ジェニフアー・ジョーンズの悲恋映画「慕情」の主題曲である。

 韓国人の客たちはみんな連れ立ってきてワイワイやっているので、ピアノ演奏なんか誰も聴いてやしない。ピアノはカウンターのすぐ横にあり、ぼくはいつもピアニストと背中合わせの椅子に腰掛けている。だから彼女はぼくの専属みたいなものだ。

 ぼくの韓国歌謡史は一九八〇年前後で止まってしまったようなところがある。だからスタンドバーで一人飲みながら聴きたい曲となる徐酉錫の「カヌン、セウォル(過ぎゆく歳月)」やチョン・ヨンの「オディチュム、カゴイッスルカ(あなたはどこへ)」などあのころのナツメロとなる。彼女はぼくのリクエストのお陰(?)で、はじめは弾けなかった韓国大衆歌謡も今やうまく弾けなかった韓国大衆歌謡も今やうまく弾けるようになった。ただ「カヌン、セウォル」じゃあ年が知れるな?   


  くろだ・かつひろ  1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者を経て、現在、産経新聞ソウル支局長。