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2006/11/03

<随筆>◇ソウル薩摩会10周年◇ 産経新聞 黒田勝弘 ソウル支局長

 ソウル在住の鹿児島出身者や鹿児島と縁のある韓国人たちでつくっている「ソウル薩摩会」(約40人)が今年で10周年を迎えた。創立者の一人として、何か記念イベントをやってはどうかと思い、先ごろ「ソウル薩摩会10周年記念文化講演会/司馬遼太郎と韓国・朝鮮・薩摩―小説『故郷忘じがたく候』を中心に」を開催した。講師は関川夏央氏。テーマがテーマだけに"入り"が気がかりだったが、幸い100人を超す聴衆で好評だった。

 これには日本国際交流基金ソウル文化センターが会場提供などで支援してくれ、さらに日本人会のSJCや韓国側の時事日本語学院や東亜ドットコムなどの協力も大いに力になった。お客さんの2-3割は韓国人だったから、日韓交流・相互理解のイベントにもなったと思う。司馬作品は韓国でもたくさん翻訳出版され、ファンも多い。

 講師の関川氏はぼくの年来の友人で、人気文芸評論家だが、1980年代初めのデビュー作『ソウルの練習問題』や北朝鮮紀行『退屈な迷宮』などで知られるコリア通でもある。近年は司馬作品の解説、評論で評判がいい。韓国としばらくご無沙汰ということもあって、今回、来てもらった。

 久しぶりのソウルで「韓国の若者の顔が先進国顔になった」といった話や北朝鮮への厳しい"思い"など現在のコリアから始まり、司馬作品も『街道をゆく2/韓のくに紀行』から『坂の上の雲』など興味津々の話が続いた。主催者としては、なかなか薩摩が出てこないのでハラハラだったが、最後に『故郷忘じがたく候』にたどりついた。それでも関川氏としては予定の話をメモ原稿2、3枚飛ばしてのことだった。今回の講演への力の入れようが分かるというものだ。

 周知のように『故郷忘じがたく候』は朝鮮陶工の末裔である薩摩焼の沈寿官さんの話である。ごく短い紀行文のような作品だ。なかなか感動的な内容だが関川氏は今回、この作品をめぐって興味深い仮説を提示していた。

 作品によると沈氏など朝鮮陶工の一行は秀吉軍の朝鮮侵攻である「壬辰倭乱」、日本でいう文禄・慶長の役終了から2年後に、自分たちの船で鹿児島に上陸している。関が原の合戦の直後である。とするとこれは朝鮮陶工についてよくいわれる"戦果"としての拉致・連行ではなく、ひょっとして自主的な希望渡航ではなかったか、というのが関川氏の仮説である。

 この仮説とのからみで関川氏は新進気鋭の作家、荒川徹氏の小説『故郷忘じがたく候』を紹介していた。ぼくはこの作品はまだ読んでいないが、一種の”捕虜”として連れてこられた彼の地の人びとでその後、朝鮮サイドの送還要請と幕府の承諾にもかかわらず、祖国への帰還を拒否した者たちの話だという。そんな史実の有無をふくめ、歴史や人間を多面的に考えさせてくれるのが小説の面白さだ。その意味で関川氏の『故郷忘じがたく候』再考は実に面白かった。


  くろだ・かつひろ 1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者を経て、現在、産経新聞ソウル支局長。