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2006/10/06

<随筆>◇マイ・ファースト・ソング◇ 産経新聞 黒田勝弘 ソウル支局長

 作家の久世光彦さんが亡くなった。テレビドラマの名演出家だったが、ぼくは彼が雑誌『諸君』に連載していたエッセイ「マイ・ラスト・ソング」の愛読者だった。久世さんは1935年生まれでぼくよりは少し古い世代だったが、戦後日本の情緒を知る世代として共感するところが多かった。大衆歌謡を素材にしたそのエッセイは毎回、楽しみで、単行本になったのもすべて読ませてもらった。

 「マイ・ラスト・ソング」というのは、私あるいはあなたが、死を前にした今わの際に、人生最後の歌として聞きたい歌があるとすれば何ですか?という話で、久世さんは自分の人生とのかかわりで思い出される歌の数々を回想録として絶妙な文章でつづっていた。いわば「歌は世につれ世は歌につれ」という話でもあるが、ぼくはそのエッセイを読みながら韓国版の「マイ・ラスト・ソング」が書けないかなあ、といつも思っていた。ぼくには久世さんのような文才はないが、韓国歌謡それも懐メロを中心にした大衆歌謡にはそれなりの思い入れがあるからだ。過去、このコラムでも韓国歌謡の話を何回か紹介してきたのも、そんな思いからだった。

 ただ以前、ぼくが書いた歌の話は「マイ・ラスト・ソング」というより「マイ・ファースト・ソング」的なものだったように思う。たとえば1971年の初訪韓の時、ソウル半島ホテル(現在のロッテホテルの位置)の地下ナイトクラブで聴いた初めて韓国歌謡「テジョン・ブルース」の感動だとか、1978年ソウル留学時に爆発的にはやっていたユン・スイル(尹秀一)の「サランマヌン、アンケッソヨ」だとか、1980年代初めプラザホテル裏の劇場式ビヤホール「草原の家」で毎晩トリで歌っていた、金貞九の演歌の名曲「涙に濡れた豆満江」だとか。

 尹秀一の歌で80年代初めにさらに爆発的人気を得た歌に「アパート」というのがある。
 
 星の光が流れる橋をわたり
 風そよぐ葦を過ぎ
 いつもオレを、いつもオレを
 待ってくれていた
 おまえのアパート…
 
 日本的に「アパート」を想像するとわびしくなってしまうが、これはいわゆるマンションのことだ。「橋」が登場するから、漢江を渡っていわゆる江南のマンション地帯のことを描いていることになる。この歌の発表年度は1983年で、当時、韓国ではマンション暮らしが普及しはじめ、大衆のあこがれになりつつあったのだ。まさに「歌は世につれ世は歌につれ」である。一人暮らしの若い女性たちも、家の真ん中に中庭(マダン)のある伝統家屋での間借りより、マンションでの間借りにあこがれた。ぼくにとって韓国の1980年代は、金敏基の「アッチム・イスル(朝露)」より尹秀一の「アパート」がはるかに時代を物語っていたように思う。

 あらためて久世光彦さんに合掌。


  くろだ・かつひろ 1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者を経て、現在、産経新聞ソウル支局長。