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2007/01/12

<随筆>◇今晩は「チンダルレ!」だ◇ 産経新聞 黒田勝弘 ソウル支局長

 乾杯とは、杯を乾すから乾杯という。したがって乾杯の際、グラスにちょっと口をつけただけで飲み乾さないのは失礼というものだ。元は中国語から来たのかもしれない。だから中国では乾杯したあとは必ず「ちゃんと飲み乾しましたよ」とグラスの底を見せるとも聞いた。今でもそうなのかしら?

 韓国でも「コンベ(乾杯)」というが、昔はあまり言わなかったように思う。1970年代初に韓国に初めて来たころ、酒席で乾杯の掛け声があまり聞かれなかったので不思議に思った記憶がある。「乾杯!」はみんなが一斉にやるのが普通だが、当時、韓国の酒席では結構騒がしいのに、この一斉に「セーノ!」的な風景があまりなかった。

 韓国で現在、定着している乾杯の掛け声は「ウィハヨ!」である。これはぼくの記憶では80年代以降のように思う。直訳すると「何々のために」で、健康のためにとかわれわれのためにとか会社ためにとか国のために…といった意味になる。最初は軍人たちがはじめたというが、その後あらゆるところに広がり、今や老若男女、いつでも、どこでも、誰でもやっている。いわば軍人文化が社会全体に定着したというわけだ。それほど「ウィハヨ!」は簡単で威勢がいい。

 もちろん「ウィハヨ!」のほかにもその時々で新しい掛け声があった。70年代から80年代にかけてだったか、結構はやっていたものに「ケナバル!」がある。これは「ケイン(個人) とナラ(国家)のバルチョン(発展)のために!」という意味の略語だ。国の発展を言うあたり「漢江の奇跡」を実現した“疾風怒濤”の時代的雰囲気を感じさせてくれて懐かしい。

 ところで最近、耳にした乾杯の掛け声がある。ひとつは「チンダルレ!」だ。花の名前の「つつじ」だが、新造語として「チナゴ(濃く)ダルコマン(甘い)ネイル(明日)のために!」を略したものだという。あるいは「タンナグィ!」というのもある。本来は動物の「ロバ」だが、これまた「タンシン(あなた)とナ(わたし)のグィハン(貴重な)マンナム(出会い)のために!」の略称だという。こうした意味からも分かるように、これらの乾杯語は、どうやら若者あるいは恋人向きのようだ。

 80年代以来もっぱら「ウィハヨ!」でやってきたぼくだが、最近は「チンダルレ(つつじ)!」「タンナグィ(ロバ)!」も使わせてもらっている。威勢のいい乾杯も楽しいが、たまには若ぶりにやってみたい。 

 それにしても韓国人は酒が好きだ。たとえば酒席対策として企業や、職場などでは「スルジョンム(酒専務)」とか「スルサンム(酒常務)」といった言葉さえある。酒席でのペースメーカーあるいは、爆弾攻勢に備えての防波堤(防酒堤?)の役割分担まで必要というわけだ。酒文化抜きに韓国生活は考えられない。日本人駐在員もつらい?


  くろだ・かつひろ 1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者を経て、現在、産経新聞ソウル支局長。