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2008/05/30

<随筆>◇ソウル賛歌◇ 韓国ヤクルト共同代表副社長代行 田口 亮一 氏

 5年前から我が社の年寄り3人は、週2回、1時間づつの英会話の勉強を開始しました。先生はカリフォルニア出身の50歳でチョンガク、ダグラス先生。ある日、そのダグラス先生が突然「1970年代のソウルと今のソウルで変化したところを英語で説明しなさい」という質問をされました。

 三人三様色々と考えた結果、副会長の金さんは「大学時代の思い出と悪いたくらみ」として変貌した江南のことを話されました。当時の大学生諸君はデートをする時には大体、「報恩寺に行こうよ」と女学生を誘ったらしいのです。今は江南貿易センタービル一帯の大地下タウンとして発展している報恩寺近辺ですが、70年代初め、報恩寺に行くには先ず渡し舟(私も乗った記憶があります)で江南に渡り、そこの小高い丘にあるこの寺で散策し愛を語らい時間の経つのも忘れて・・・。

 クロッスムニタ(そうです)!この男子学生のたくらみは時間を引き延ばして帰りの渡し舟最終便に間に合わないようにすることだったのです。金さんがそれで成功したのかどうかは知りませんが、今から考えると何ともほほえましい当時のチョルムニ(若い人)の姿に笑いを誘われました。

 次に梁社長さんは、比較的新しい国会議事堂移転と李・現大統領さんがソウル市長時代に強力に推進され脚光を浴びた清渓川の大改修を話されました。

 さてトゥディオ(いよいよ)私の番になったのですが、前のお二人が町の変化・発展が中心だったので、何か制度の変化は無いものかと考え、若い頃の失敗談を話すことにしました。それは戒厳令下の時代です。私の20代後半、独身の頃は、他の同世代の日本人仲間数人と龍山区の三角地に住んでいました。韓国語は分からないながらも若さという強力な武器を持ち(今考えると、ただ無鉄砲だっただけです)、パムマダ(毎夜)、当時ソウル随一の歓楽街武橋洞をヘメゴイッスムニダ(さまよっていました)。

 或る夜のこと、いつものとおり仲間と痛飲したあげく、何故か仲間にはぐれ夜間通行禁止が始まる夜12時を過ぎてしまいました。武橋洞から三角地迄歩こうとしたのでしょう、人っ子一人通らない、車一台通らない南大門からソウル駅を酔いにまかせて悠々と歩いていきました。淑徳女子大入り口のあたりまで来たところで、「イバッ、イバッ(こらっ、こらっ)」と呼び止められ、警戒中の派出所のおまわりさんに捕まってしまい、今でも鮮明に覚えていますが「南営洞派出所」に連れて行かれました。戒厳令終了の明け方4時までここを動いてはいけないと言われ、酩酊した頭で必死に弁解して、「最近の日本人は本当にだらしない」と年配のおまわりさんに強烈な言葉の一発を喰らい、それでも親切に三角地のアパートまで白いオートバイで送ってもらいました。

 英語の学習というひょんなことから懐かしい思い出話に花を咲かせた3人は、この時間の最後に声を合わせて大きな声で言いました。「ダグラス先生!コマッスムニダ!」


  たぐち・りょういち 1943年満州国生まれ。東京都立大学人文科学部卒。69年ヤクルト入社、71年韓国ヤクルト出向。94年から同社共同代表副社長代行。