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2009/01/16

<随筆>◇仏陀庵◇ 韓国双日 大西 憲一 理事

 「直指人心、見性成仏、直指人心、見性成仏…」

 両手で合掌しながら私は毎晩、掛け軸の前で念仏を唱えている。掛け軸の中には、大きな目玉をぎょろりとひん剥いた、いかにも怖そうな和尚さんが私を睨んでいる。左手に握られた頑丈な杖が今にも私の頭上に飛んで来そう。でも何回か念仏を唱えると不思議にも何となくお坊さんの呪縛から解かれたような気分になって、安心して眠りにつける。酔っ払って忘れた時などは、夢の中で和尚さんに「カーッ」と渇を入れられて夜中に思わず飛び起きる。

 何故こんなことになったのか? 実はこの掛け軸はPホテルの美人支配人・金さんから頂いたものだが、軽い気持ちで居間に飾ったのが運のつき、いつも怖い和尚さんに睨まれる羽目になってしまった。かといって、取り外したら罰があたりそうで動かせない。

 最初は掛け軸の言葉の意味がさっぱり分からなかったが、最近、金さんに教えられた。「自分の心を正直に観ることにより本当の自分が解り、悟りの心に近づける」。そういえば私はいつも自分の本心から目をそらして生きて来た。

 「これは私のお寺の住職だった法龍さんの直筆なのよ」「私のお寺?金さんのお寺って?」「だから私のお寺なの。仏陀庵」

 話が通じないのでしつこく聞いたところ、彼女は恐るべき事実を淡々と語りだした。「たまたま、慶尚北道の山間にある仏陀庵が売りに出ていたので買ったの」。まるで別荘を買ったような口ぶりだが、「仏陀庵」は5000平方㍍近い規模の、由緒ある「お寺」ですぞ。投資対象からはほど遠いと思うが…。それに、一流ホテル勤務のスマートな女性と、山あいのお寺はどうにも結びつかない。

 「実は当時、人生の一大転機に直面していたこともあり、また、母が尊敬しているお坊さんの修行の場としても丁度良かったので、良いことにお金を使おうと思い切った」「その後、仏教を勉強して、韓国仏教の大本山である曹渓寺の布教師の資格も取得した」。人は見かけによらないものだ。「お寺の維持は大変だけど、私の精神的支柱なの。都会の生活に疲れた時、お寺に行くと心が洗われます。大西さんも疲れて見えるけど、一度いらっしゃい」

 痛いところをつかれたが、確かに最近の私は為替と株暴落のせいもあって疲れている。それが顔に出ているようだ。いつも笑顔を絶やさず客先に安らぎを与えている彼女とは大違い。まだまだ修行が足りない。とりあえず毎日の念仏は欠かさないぞ。

 数日後、新年会でしこたま飲んで千鳥足で拙宅に戻った私は、念仏を忘れてそのまま寝室に行こうとして和尚さんに思い切り頭を殴られて卒倒した。「痛ッ。ごめんなさい…」頭を抱えながら暗い部屋で我に返ると、居間の壁に激突していた。


  おおにし・けんいち 福井県生まれ。83-87年日商岩井釜山出張所長、94年韓国日商岩井代表理事、2000年7月から新・韓国日商岩井理事。04年4月、韓国双日に社名変更。