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2009/06/12

<随筆>◇朝鮮戦争◇ 広島大学 崔 吉城 名誉教授

 1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した時、38度線付近で生まれた私は10歳の子供だった。苦戦場といわれた生まれ故郷は大きく被害を受けた。朝飯を食べている時、北から南へ鉄砲の弾が飛ぶ、空をひき裂く暴音がした。遠くからは戦車の騒音と人々の歓声が聞こえた。ソウルの親族の家に避難したがソウルでもまた夜中に砲声が闇の空を裂いた。

 漢江橋は韓国側が爆破して壊れたので渡れない。各自渡り船をチャーターして渡った。渡った所で渡り船が転覆して妻と子供が川水に流されたと一人の中年男性が慟哭していた。

 3カ月後、北に向かって歩いた。その晩、隣の村で韓国軍の将校家族8人と一頭の牛を含めて全家族が残虐に刀で殺された。朝鮮民主主義人民共和国から解放された。派出所も面事務所も韓国側に変わった。その数日後の夜に敗残兵に派出所が襲撃された。村は不安でいっぱいであった。

 その冬までに復讐行為が続いた。8人の家族が虐殺された家の息子である韓国軍将校が帰宅して、北朝鮮に協力した人を捕まえて数人を殺した。私は氷の上でソリに乗って遊びながら殺す場面を目撃した。その時、私は人を殺す現場を見てもそれほど怖く感じなかった。一人がシャベルをもってしばった人を歩かせ、後ろから銃殺して穴に埋めて、彼等が帰るまで私はそのまま変わらず遊んでいた。

 寒い冬になった。年末年始のころであった。中共軍が入ると噂が回り、恐怖感を持っているところに、深夜ラッパを吹き、鉦などを鳴らす音楽が聞こえた。それは音楽ではなく、地獄への挽歌のように感じた。夜の1時か2時ころ、大門をただきながらヨボセヨと韓国語で呼びかけ声がする。じっとしていた。こわくて答えられなかった。すると意外なことにそのまま静かになった。中国の支援軍の参戦によって韓国軍がソウルから1月4日後退した。

 朝起きて前の山に白い服装の中国軍がいっぱい見えた。住民たちはまた南へ避難することになった。戦争はまた激しくなった。米軍が十数名亡くなった。その死体をわが家の横に積んでおいてヘルコプターで運んで行った。しかし中国の戦死者は70人余りであり、処置が問題であった。村人に埋葬するように指示があって、父なども村人とともに死体を一つの穴に数名ずつ埋めた。

 我が村の前の畑と小山には米軍キャンプが駐屯した。米軍が2、3人ずつ時々村を徘徊した。時には犬を連れて歩いた。村では彼らの行動を観察していた。それは軍事活動とは思われなかった。女性を探して歩いていると噂が立った。その晩、性暴行する場面を見つけた村人が農機具で黒人を殺したという。憲兵が調査に来たが農民たちが逃げており、また部隊移動のため捜査もなく、済んだ。

 私が体験した朝鮮戦争はこのようなものであった。


  チェ・ギルソン 1940年韓国・京畿道楊州生まれ。ソウル大学校卒、筑波大学文学博士(社会人類学)。慶南大学校講師、啓明大学校教授、中部大学教授、広島大学教授を経て現在は東亜大学教授・広島大学名誉教授。