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2009/07/03

<随筆>◇ソウル生活の知恵◇ 産経新聞 黒田勝弘 ソウル支局長

 韓国の“障害者雇用政策”はずいぶん進んでいると思う。たとえばタクシーの運転手に口のきけない人がたくさん雇用されているからだ。だから、お客が乗って降りるまで一言もいわない運転手がよくいる。行く先を伝えればそこまで行ってくれるので、耳は聞こえているようだ。彼らは聾唖者でも「唖」の方で、言語に障害があるようなのだ。

 と皮肉をいいたくなるほど、タクシー運転手のマナーが相変わらずよくない。客が乗って行く先を告げ、料金を払って降りるまでウンともスンとも何もいわない。金を受け取って、ありがとうといわないタクシーなどというのは、世界で韓国だけじゃないのか。

 最近、料金の値上げがあったので、あらためて書いておきたい。ちなみに今回の値上げは基本料金が千九百ウォンから二千四百ウォンで一挙に五百ウォンのアップだ。キリのいい大幅アップというのは韓国式だから、さして不満の声は聞かれないが。

 さて、ぼくはほぼ毎日、タクシーに乗っている。ソウルでこうした生活を三十年続けているので経験は豊富だ。その経験からそれなりに生活の知恵を身につけている。たとえば物言わぬ不親切タクシーの不愉快さを避けるためには、こちらからまず声をかけ、愛想をして親切を引き出すようにする。こちらが乗るときには「ありがとう」といい、降りるときには「ご苦労さん」というのだ。たまにはさらに「いい天気だねえ」「暑いねえ」「混んでいるねえ」…などと声をかける。これをやるとだいたいは「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と反応する。お互い気分よく別れられる。できればこうした愛想にプラス、お釣りの小銭は「いいよ」といってあげる。とたんに元気なあいさつが返ってくる。ちょっとしたことで互い幸せになれるのです。ところがこちらが愛想をしても何もいわないのがたまにいる。こんなのに出くわすと徒労感、絶望感で一日、不愉快だ。深夜など疲れがドッとくる。今、前の晩の不愉快の余韻でこれを書いている。

 ついでに最近、日本人のおじさんが気になっている風景がある。若い女性がレストランやハンバーガー屋、コーヒーショップなどで、イスにあぐらをかいているのがそうだ。韓国はGパン好きのズボン社会だからそれが可能なのだが、おばちゃんやおばあちゃんならともかく、あれは実に見苦しい。昔のチマ・チョゴリ時代の立てひざ・あぐら文化の名残りでしょうか。チマに隠れた立てひざやあぐらは風情があったが、Gパンではねえ。しかもクツ脱ぎでイスに上がって…。

 もうひとつ、今や見られなくなった風景に、バスや電車の座席でのカバンや荷物のあずかりがある。座っている人が前に立っている人の荷物を、ひざの上にあずかってあげるのだ。あの美風は実に懐かしい。あれ、なぜなくなったのでしょうね。


  くろだ・かつひろ 1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者を経て、現在、産経新聞ソウル支局長。