ここから本文です

2009/08/21

<随筆>◇グッバイ・ソウル◇ 韓国双日 大西 憲一 理事

 「このパスポートは期限切れですよ」成田空港チェックイン・カウンターの女性の困ったような顔。慌てて古いパスポートを持って来てしまったのだ。何とか最終便でソウルに到着した94年12月15日の夜、ソウルの街は寒さで凍てついていた。私との夕食を予定していたY支店長は待ちきれずに帰宅済みで、一人寂しく、コリアナホテルでソウルの第一夜を迎えた。

 あれからもう15年近くになるが、日本帰国を目前にして私の頭の中は過ぎ去ったソウル生活が走馬灯のように駆け巡っている。暑い日曜日の午後、この原稿を書いている事務所の真横にある清渓川は冷を求める家族や恋人たちで一杯だ。みんな幸せそう。韓国は本当に豊かになった。

 「ボシンタン(犬鍋料理)食べに行きましょう」。念願かなって彼女との初めての食事でわが耳を疑った。ボシンタンはてっきり韓国男性の食べものと思っていたのに、子犬のように可愛い彼女の好物だったとは。

 鶏も犬も駄目な私は一瞬、躊躇したが、日本男児として弱音は吐けない。決死の覚悟で犬肉の破片を口に運んだが一口が精一杯。あの柔らかい独特の味と、憐れっぽく私を見つめる彼女の顔は今も忘れられない。

 韓国の代表的な料理の一つ、蔘鶏湯にも苦労した。ぐつぐつ煮えたぎった鍋の中に、原形をとどめて恨めしそうに横たわっている若鶏を見ると逃げ出したくなる。でもお客さんの手前、逃げられない。まず腹に詰まっている人蔘やニンニクに箸をつけながら、いかにも食べたように鶏肉をスープの奥深く沈め込む作業に没頭する。隣のお客が怪訝な顔で見ている。でも韓国では弱音は吐けない。

 料理だけでなく韓国の酒も堪能した。S社の会長は食事が始まるや否や爆弾酒の準備に入る。たくさん並んだビールグラスの上に、ソジュ(焼酎)の入ったグラスを器用に並べて華麗なドミノ倒しで爆弾酒の出来上がり。まるで芸術だ。それを参加者全員が一気飲み。空になればもう一度とエンドレスゲーム。意識が朦朧としてくる。酔いつぶれた日本人(私)を見て会長は誇らしげな顔でにんまり。でも韓国では弱音は吐けない。

 清渓川広場では若者グループによる歌謡ショーが始まった。アイドルのダンスに観客は酔いしれている。何ヶ月か前にここでローソクデモがあったとは信じられない。前大統領の自殺も風化しかかっている。景気は着実に回復している。独島問題も静かだ。

 でもこの平和がいつまで続くだろうか。韓国に静けさは似合わない。15年間、ソウルの表と裏を見続けて来たが飽きることはなかった。今や長年のキムチで体内に真っ赤でピリリと辛い血が流れている私は韓国から離れられない。これからもこの国のどこかで韓国を味わい続けるつもりだ。


  おおにし・けんいち 福井県生まれ。83-87年日商岩井釜山出張所長、94年韓国日商岩井代表理事、2000年7月から新・韓国日商岩井理事。04年4月、韓国双日に社名変更。