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2011/08/12

<随筆>◇戦争と平和◇ 広島大学 崔 吉城 名誉教授

 終戦、敗戦、解放、光復。つまり8月6日、9日、15日に近づくとマイケル・ウォルツァーの『正しい戦争』を思い出す。最近、私は東大で行われた「戦争と戦没者をめぐる死生学」(代表・島薗進教授)のシンポジウムで司会を担当しながら戦争は正しいのか否かの議論について改めて、その意味を冷徹に考察すべきであると感じた。

 ウォルツァーは『正しい戦争と不正な戦争』について論じている。湾岸戦争、コソボ紛争、パレスチナ紛争、テロ、イラク戦争などの戦争の事例を挙げながら戦争が正しいか、否かを、戦争の本質、モラル、国際政治などの観点から検討した。

 私は戦争の悲惨さをもって戦争を論じて、いわば反戦的であった。それは一般的な常識であろう。

 特に反戦主義の平和運動家たちにとっては「戦争は正しいか」ということばを聞いただけで怒り、「反戦」に反する意見を出すならば戦争擁護者だと言うかもしれない。

 ここで私は反戦主義の「平和」運動家たちに問いかけてみたい。皮肉にも彼らは平和が戦争と密接していることに気が付いていないようである。「戦争と平和」は対になっている。戦争を正当化するには「平和」が借用されるのが常である。

 古い実例として1894年8月1日に出された日清戦争の時の明治政府の800字強の宣戦文を挙げることができる。『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』には「東洋の平和」のためにと「平和」という言葉が6回入っている。

 それは過去のことだけではない。今私たちは北アフリカや中近東の戦争のニュースに接している。デニス・クシニッチ議員が「戦争の正当性が連邦議会によって精査されなければならない」とオバマ大統領を訴え、オバマ米大統領はリビアへの軍事介入について「一般市民の命が救われた」と語り、米国民に理解を求めた。私はこのような宣戦演説を聞きながら戦争の正当性に不信感が出ることを抑えきれない。「戦争の正当性」とは何だろうか。

 端的にいって平和という言葉は戦争を正当化するためによく利用されている。平和運動家たちの「平和」への宣言などが時には戦争と繋がらざるを得ないことさえありうる。平和のためにも戦争を深く考えるべきであろう。

 ウォルツァーは罪のない人たちを殺さない「人権」からの軍事介入の戦争は正しいという。最終手段であるという戦争が「正しい」とするならば「悪」は存在しないだろう。戦士も「平和の天使」とならなければならない。

 しかし私は戦争中に兵士たちの殺害と性的暴行などを目撃しており、とてもウォルツァーの意見には賛同できない。戦争は「政治の延長」ではなく、破滅であるからである。


  チェ・ギルソン 1940年韓国・京畿道楊州生まれ。ソウル大学校卒、筑波大学文学博士(社会人類学)。陸軍士官学校教官、文化広報部文化財常勤専門委員、慶南大学校講師、啓明大学校教授、中部大学教授、広島大学教授を経て現在は東亜大学教授・広島大学名誉教授。