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2012/07/27

<随筆>◇元気のもとは"好奇心"◇ マッカン・ジャパン 大西 憲一 代表

 「おおにっさーん」。7月の梅雨の晴れ間、待ち合わせ場所の玉川高島屋に近づくと満面に笑みをたたえた銀髪の紳士が手を振っていた。血色の好いお顔は数年前にソウルでお会いした時と少しも変わっていない。「お久しぶりです」私も急いで駆け寄って握手した。

 秋山英一さんに初めてお会いしたのは6年前、ソウルの居酒屋「つくし」で佐賀県人会に出席されている所を紹介された。「この人がロッテ百貨店を創った人です」すでに凄い方とは聞いていたが、意外に柔らかい物腰と素敵な笑顔が印象的だった。

 次にお会いした時にご本人の一代記『韓国流通を変えた男』をサイン入りで頂いた。韓国にはまだまともなデパートがない時代にゼロから出発して、持ち前のチャレンジ精神で韓国量販店の頂点にまで育て上げたロッテ百貨店創成記は大変興味深く、一気呵成に読破した。

 ソウル市民憩いの空間・ロッテワールドや、釜山の街を変えた西面(ソミョン)のロッテ百貨店も秋山さんの作品だ。釜山は以前は国際市場やチャガルチ市場に隣接する南浦洞、光復洞が最も賑わっていた。秋山さんの話では、釜山は伝統的市場と専門店で構成する街で、量販店の対象ではなかったらしい。日本では神戸がそうだった。そこへ進出するのはかなりの冒険だったが、トップの意向と旺盛なチャレンジ精神で釜山の街を変えてしまった。

 「失敗もありましたよ。百貨店に日本風のレストランを作ったのですが、天ぷらもラーメンも寿司も牛丼も全部失敗。辛うじてうまく行ったのはトンカツだけ」。食文化の壁は厚かったようだ。特に日本式丼モノは「混ぜ文化」の韓国では今でも浸透していない。

 秋山さんの挑戦はロッテでの任務を終えられた1995年以降も続く。当時すでに70歳になっていたがそのままソウルに残って昨年11月に帰国するまで通算34年間、韓国流通業界の発展のために尽くされた。21年間、韓国で適当に年月を重ねただけの私などとは次元が違う。

 「10月にはソウルの友人が米寿を祝ってくれるそうです。また焼酎です」。嬉しそうに語る秋山さん。「韓国の焼酎なら今でも2本はいけます。無理すれば3本…」。参りました。私は1本を超えるといつも記憶がなくなるというのに。100才の現役医師・日野原先生の「新老人の会」にも関与されておられるが、「韓国でも老人が集まると病気と孫の話、それに政府の悪口ばかりです」。いつも夢いっぱいの秋山さんには普通の老人の話題は馴染まないようだ。

 「秋山さんの元気のもとは何ですか?」ズバリ聞いてみた。「好奇心です。いろんな事に好奇心を持てば年を取っている暇はありません。実は先日、東南アジアに行って来ましたが、近いうちに欧州にも行きます。まだまだすることがいっぱいあります。ところで貴方はまだお若いですが何をしてますか?」

 「私?エーッとですね…」。冷や汗が噴き出てきました。


  おおにし・けんいち 福井県生まれ。83―87年日商岩井釜山出張所長、94年韓国日商岩井代表理事、2000年7月新・韓国日商岩井理事。09年10月より韓国TASETO専務理事。2011年9月よりマッカン・ジャパン代表。