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2012/11/02

<随筆>◇いくつかの財布の話◇産経新聞 黒田勝弘 ソウル駐在特別記者兼論説委員

 韓国には通算で三十年近く住んでいるが、長く居られる理由についてよく聞かれる。その答えとして「事件や事故などイヤな目に遭ったことがないから」と言っている。不思議なのだが、留学時代をふくめ泥棒や強盗、引ったくり、スリ、暴行、傷害など犯罪の被害体験がまったくない。交通事故もない。

 だから以前から半ば冗談で「一度、泥棒や強盗などの被害に遭ってみたい、そうすればぼくの韓国観にも変化があるかもしれない」と言っている。体験的にいって韓国生活は実に安全なのだ。そのため日本からの旅行者で被害に遭ったという話を聞くと「そんなはずは…」と逆に首を傾げてしまう。

 しばらく前に韓国好きの友人から、韓国の田舎旅行で“置き引き”に遭ったという報告を受け取った時は驚いた。この友人は韓国語もできる韓国旅行のベテラン。よく一人でブラリ田舎旅行にでかける。ところが先ごろ忠清北道の地方都市のバスターミナルで、ソウル行きのバスに乗った際、出発前の数分の時間を利用しターミナルのトイレに行き戻ってきたところ、座席に置いておいた財布入りのバッグがなくなっていたという。ソウル行きの切符と小銭を除き旅券からカード、現金まですべてなくなり往生したのだが、筆者には今も信じがたい話だ。

 その友人にも紹介したのだが、筆者にはこの夏、逆の経験があった。趣味の釣りの帰り、慶尚北道の栄州から高速バスで東ソウル・バスターミナルに帰着し、バスを降りて百メートルほど行ったところで、ズボンのポケットに財布が無いことに気付いた。

 急いでバス降り場に戻ったところ、バスから運転手が降りるところだった。彼は筆者の顔を見るなり「これでしょう」といって財布を手渡すではないか!

 感激し思わず彼を抱きしめましたねえ。聞くと、座席に落ちていたのを乗客が拾い運転手に届けていったという。よく乗る栄州からの客だったとか。「また会ったらお礼の言葉と感動を伝えてほしい」と頼んでおいた。ところがである、つい先日、一時帰国の折り羽田空港国際線の到着ロビーでまた財布をなくしてしまった。ベンチで荷物の詰め替えをした際、財布をベンチに置いたまま立ち上がったらしい。階下でお茶を飲み新聞を読んだ後、気付いた。約一時間後である。

 絶望にかられロビーの案内スタッフに相談したところ「空港派出所に届けを出しておきましょう」と親切に派出所まで連れて行ってくれた。ところがである、何とすでに財布は届けられていたのだ。これもまた感激である。財布には韓国での外人登録証や日韓双方の銀行カード、社員証のほかかなりの現金が入っていた。拾い主は中年の日本人男性とかで、そのまま立ち去ったという。空港のあんな場所を考えれば奇跡に近い。名も知らない拾い主に感謝と感動を伝えたいためこの話を書きました。


  くろだ・かつひろ 1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者、産経新聞ソウル支局長を経て、現在、ソウル駐在特別記者兼論説委員。