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2013/02/15

<随筆>◇釜山港へ帰れ◇ 呉 文子さん

 樋口謙一郎氏連載の「韓国現代史の風景」によると、「釜山港へ帰れ」の原歌詞は、男女の別れがテーマだったとのこと。その歌詞が変わったのは、一九七五年に「母国訪問事業」が開始され、肉親との感動的な再会シーンが映像に映し出されるようになってから、海峡を隔てた兄弟の別れの歌詞に変わったそうだ。この曲は趙容弼の代表的な歌となり、趙容弼全盛時代を迎える。

 当時の在日の社会状況は、長期にわたる祖国の分断がそのまま在日社会を投影していた。不毛なイデオロギー論争に明け暮れ、ことあるごとに誹謗中傷合戦を繰りひろげていたが、南北どちら側の団体に拠って生きようと、一世たちの母国への憧憬は異常なまでに強かった。しかし拠って生きてきた団体との訣別は、「節操」を守るという大義名分のため、反動という汚名をも覚悟しなければならなかった。不幸な歴史の狭間で引き裂かれ、会いたくても会えない親兄弟がいたあの頃。夫もまだその呪縛から解き放たれていなかった。いまから思うとなんと不自由な時代だったことか。

 いまでも「釜山港へ帰れ」の曲が流れると、私が初めて夫の故郷を訪問した一九七九年の、あの日の情景がひとコマひとコマ鮮明に蘇ってくる。夫の故郷は対馬から最も近い韓国の南端にあり、金海空港から洛東江ぞいの高速道路を三十分ほど南下したところの美音里。その地名のように美しい村里で、春霞に包まれた野山に、春の訪れを告げる山つつじがうっすらと色を染めはじめていた。

 私の故郷訪問は夫の義妹弟に会って夫の近況を知らせることと、夫の両親の墓参が目的だった。長男の嫁である私の初めて墓参は、夫の故郷での習俗に倣って厳かに進められ、身にまとった白いチマ・チョゴリの祭礼服を燃やして滞りなく終った。瞬く間に煙は高く昇り、茜色に染まった夕暮れの空のまにまに消えていった。義父母の墓に向かって深々と大礼をして墓所を後にするころには、西の山の端には夕日が沈みかけていた。

 くねくねと曲がった細い山道をしばらく歩いて降りると、麓の有線放送からだろうか「トラワヨ プサンハンエ」と聴き覚えのある「釜山港へ帰れ」の曲が流れてきた。「帰ってきて、懐かしい兄弟」というリフレインが、哀切なメロディーと共に胸に迫ってきた。まるで「お兄さん早く帰ってきて!」と義妹弟たちが訴えているように私には聞こえ、引き裂かれた肉親の積年のハン(恨)を私が肩代わりしているような思いに駆られたのだった。

 私の訪問から数年後に夫は金達寿先生、姜在彦先生たちと玄海灘を越えるのだが、民族を裏切る行為だと激しい集中砲火を浴びることとなった。それは凄まじいばかりだった。あの頃訪韓を糾弾した人たちも、その後なしくずし的に韓国を訪ねている。この曲を聴くと当時のことが思い出され、万感胸に迫ってくる。


  オ・ムンジャ 在日2世。同人誌「鳳仙花」創刊(1991年~2005年まで代表)。現在在日女性文学誌「地に舟をこげ」編集委員。著書に「パンソリに思い秘めるとき」(学生社)など。