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2014/02/14

<随筆>◇扶余白馬江にて◇ 呉 文子さん

 昨年の秋、紅葉の燃え盛るなか、ソウルを起点に水原・雪岳山・百潭寺・束草・大田・儒城・公州・扶余へと8日間の旅をした。新しい発見と感動の連続だったが、特に扶余では、初めて母国を訪問したときのことなどが思い出された。

 1979年、父に伴われてソウルから釜山までの名刹、名所を観光しながら南下するという贅沢な旅をした。初めての母国訪問で緊張していた私を優しくエスコートしてくれた父との想い出は尽きない。まだ韓国が貧しく、国道で行き交う車は乗用車など稀で、時たまトラックが行き交うぐらいだった。

 公害問題よりも経済成長を優先させた頃で、白馬江の船着き場にはヘドロやゴミが溜まっていて異臭が漂っていた。百済文化の源となった母なる河、そして最後を見守った歴史の河の在り様に唖然としながらも、父の熱のこもった説明に聞き入っていた忘れがたき想い出の地。金達寿先生、姜在彦先生や夫たちが節儀のため韓国を訪問することができなかった10年も前のことである。

 喜寿を迎えての長旅で疲れはかなり滞っていたが、この旅の最後の目的地である百済の都扶余、扶蘇山へと心弾ませながら向かった。あの日、父の歌ってくれた♪ペクマガン プルン ムレ♪の旋律が懐かしさをともなって蘇ってくる。

 扶蘇山は、別名半月城とも呼ばれる百済の鎮山だという。ガイドの説明に耳を傾けながら、「三千宮女花のごとく落つ」で有名な落花岩へとのぼっていく。新羅と唐の連合軍が百済を攻め、百済滅亡時、3000人の宮女が捕虜となるよりも死をもって節義を守ろうと白馬江に身を投じた場所である。宮女たちのチマ・チョゴリの鮮やかな色がツツジの花の様であったことから、この崖を落花岩と名付けられたという。

 絶壁から投身した宮女たちの追い詰められた心境や息遣いなどが、時空を超えて伝わってくるよう…。落花岩から岩山を降りていくと、伽藍一つの庵のような小さな寺・皐蘭寺が建っていた。宮女たちの霊を弔うために建てられたという。滅びの文化の象徴か…。あまりにも侘びしい佇まいに、私はおもわず(晋州城の)立派な論介廟と比較してしまっていた。

 皐蘭寺の近くから屋根瓦造りのかなり大きな遊覧船に乗って、白馬江を下った。時の流れを忘れさせるかのように遊覧船のスピーカーから♪ペクマガン プルン ムレ♪が繰り返し流れてくる。ふと鬼籍に入られた身近な人たち…金達寿先生・徐彩源先生(三千里の社長)・鄭詔文先生(高麗美術館創設者)や父(楽園の夢破れての著者)や、夫のことなどが思い出された。この歌は分断時代を生きた在日一世の望郷の歌でもあったのだ。哀切なメロディーを聴きながら、宮女たちの節儀と現代の節儀、節儀とはかくも重く、そして虚しいものか…。白い砂州と錦繍の山並みが調和する穏やかな風景の中で、しばし懐旧の想いに浸っていた。


  オ・ムンジャ 在日2世。同人誌「鳳仙花」創刊(1991年~2005年まで代表)。現在在日女性文学誌「地に舟をこげ」編集委員。著書に「パンソリに思い秘めるとき」(学生社)など。