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2014/03/21

<随筆>◇ドキュメンタリー映画『鄭詔文の白い壺』◇ 呉 文子さん

 ソチ冬季オリンピックで沸いていた2月19日、ドキュメンタリー映画「鄭詔文の白い壺」制作班が取材に訪れた。一行は崔宣一氏(韓国文化財庁文化財委員・この映画のプロデューサー)、黄哲民氏(監督)、崔光熙氏(作家)、撮影監督、音響係と通訳の計6名。

 今回、私がインタビューを受けることになったのは、高麗美術館の李須恵学芸員から取材に協力してほしいとの依頼があったためだ。

 その後、崔宣一氏から「今回の取材は、李進熙先生と鄭詔文先生との交流を中心に質問させていただきたく存じます。李進熙先生が歩まれた道のりのなかで、鄭詔文先生が通過された時代の輪郭が浮き彫りになると考えております。当時の時代性を推し量るという次元で、在日同胞の悩みについて傍で支えてこられた呉先生にインタビューに応じてほしい」との申し出があったからである。雑誌「日本の中の朝鮮文化」創刊以来20数年来の親交があったことを、夫の著書『海峡』を熟読された上での依頼だった。

 この映画の主人公・鄭詔文氏は全財産を投じて日本に散在している1700点もの祖国の文化財を収集し、1988年に念願だった高麗美術館を京都に創設され、翌年70歳の若さで亡くなられた方である。祖国の歴史と文化を正しく知ってほしいとの氏の願いは、その後ご子息をはじめ関係者によってさまざまな企画展が開催され、文化財を通して隣国を知る拠点ともなっている。また氏は祖国の統一までは北も南も訪れようとしなかった稀有な在日コリアン知識人でもあった。

 この映画は、鄭詔文氏がなぜ文化財収集にあれほどまでにこだわったのか、なぜ望郷への想いに胸を焦がしながらも故郷の地を一度も踏まなかったのか、これらの疑問に答えを探し求める道程でもあるはずと、私はインタビューの申し出を快諾した。なぜなら私もずっとその答えを知りたいと思っていたからである。

 「日本の中の朝鮮文化」発行当時、司馬遼太郎氏や上田正昭氏との交流や編集委員として金達寿氏と一緒にかかわっていた夫の写真や資料をお見せしながら、カメラの回る中、私は日本語混じりの拙い韓国語でインタビューに応じていた。私の頭の中は社会主義の勝利は歴史発展の法則と信じて疑わなかった愚かで惨めだった60年代、不毛なイデオロギー論争で苦しめられた悪夢のような70~80年代が駆け巡り、虚しさ、悔しさがこみ上げてきた。

 夫たちの訪韓後、「正義」をふりかざして批判した「文化人」たちのその後の変貌ぶりを思い浮かべながら、愚直なまでに一途に守ろうした稀有な「鄭詔文氏の節義」が、なんと気高く崇高な姿として見えてくることか。あれから四半世紀、在日の風景はすっかり様変わりした。もし鄭詔文氏がご存命だったらなんとおっしゃるだろうか…。


  オ・ムンジャ 在日2世。同人誌「鳳仙花」創刊(1991年~2005年まで代表)。現在在日女性文学誌「地に舟をこげ」編集委員。著書に「パンソリに思い秘めるとき」(学生社)など。