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2005/06/24

<鳳仙花>◆関釜連絡船就航100周年◆

 今年は韓日国交正常化40周年と同時に、乙巳保護条約(1905年)によって日本が韓国の外交権を奪い、保護国としてから100年の節目の年に当たる。これを契機に日本は、下関-釜山間に定期連絡船を開設、韓半島への進出の足がかりとした。今年は、関釜連絡船(現在の関釜フェリー)就航100年の記念すべき年でもある。

 最初、連絡船の名は「壱岐丸」「対馬丸」だったが、韓日併合後は「高麗丸」「新羅丸」「景福丸」など韓日融合を意図した船名に変えられている。連絡船は、植民地時代の交通の大動脈として日本から兵士や開拓移民を運ぶ役割を担った。さらに、当時は大陸から日本に渡るほかの交通手段がなく、この連絡船を利用して多くの欧米人も日本を訪れていた。

 しかし、忘れてならないのは、強制連行された多くの朝鮮人たちの輸送にも、この連絡船が使われたことである。船内にすし詰めにされ連行された徴用者は、下関から九州の炭坑や全国各地の軍需工場、建設現場などに投入され、酷使された。このため、いつの日か関釜連絡船で再び故郷の土を踏むという夢を絶たれた人は少なくない。

 解放(終戦)直後は、故郷に帰ろうと多くの在日が下関に集結したが、戦後の混乱から関釜連絡船の運航が途絶え、やむなく日本に残って住み着くことを余儀なくされた。連絡船が復活するのは25年後の70年からである。

 新生・連絡船は関釜フェリーと名を変え、国交正常化後の韓日交流を支え続けている。このフェリーを利用して相手国を訪れる若者も多く、空の便にはおよぶべくもないが、昨年は15万5000人が利用した。13時間の船旅は、乗客のふれあいの場になっており、韓日友好に役立っている。飛行機もいいが、100年の歴史に思いを馳せ、関釜フェリーでゆったりと韓国を訪ねてみてはいかがろう。(N)