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2006/08/18

<鳳仙花>◆朝鮮人陶工の末裔・東郷茂徳外相の平和外交◆

 小泉首相の参拝強行で靖国問題がかまびすしいが、靖国に祀られているA級戦犯の中に太平洋戦争の開戦時と終戦時に外相を務めた東郷茂徳(しげのり)がいる。A級戦犯として20年の刑を受け、巣鴨刑務所に服役中に病死したため「悪者」扱いされているが、類いまれな外交手腕を発揮し、終戦間際の混乱期に諸外国との和平交渉に当たった功労者の一人として高く評価する歴史学者も少なくない。

 周知のことだが、東郷茂徳は、秀吉の朝鮮侵略の際に薩摩の島津公が連れ帰った朝鮮陶工の末裔である。父親の陶工・朴寿勝の長男として鹿児島県の苗代川に生まれ、父親が士族株を購入し「東郷」を名乗ることになったため、5歳で朴茂徳から東郷茂徳になった。東京帝国大学(東京大学)独文科で学び、独文学者を志していたが外交官に転身、駐ドイツ大使、駐ソ連大使などを歴任した。

 東郷は剛直で責任感が強く、平和主義者であったといわれ、日本がナチスと手を組むことに反対してドイツ大使を罷免されたり、開戦時の東条英機内閣の外相時には、植民地支配の行政を司る大東亜省の設置に反対し、辞任している。このような姿勢は一貫しており、戦争末期に軍部が「本土決戦」「一億玉砕」を叫び、戦争継続を強行しようとしたとき、「日本の外交はもう息詰まっている。ソ連など外国から有力な援助を望むことは不可能だ。希望的観測を基礎に戦争継続の決議をするなど、自分はなおさら反対だ」と強硬に主張、これが昭和天皇を動かし、「終戦の聖断に至った」という人もいる。

 靖国問題がクローズアップされている今の時期こそ、このような外交官がいたことを思い起こすべきだろう。結果的に東郷は、「真珠湾奇襲」時の外相だった責任を迫られ、A級戦犯となったが、その外交手腕と平和思想には学ぶべき点が少なくない。未知の読者には、ぜひ東郷茂徳を知ってほしいと思う。(G)