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2014/11/21

<鳳仙花>◆雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)「誠信の交わり」今こそ◆

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」がこの間、豊臣秀吉の朝鮮侵略を描いていた。多くの民衆が犠牲となり国土が荒廃した朝鮮では、日本への不信感が高まった。対馬藩は関係改善に尽力し、両国友好に貢献する人材を育てた。その一人が雨森芳洲である。

 雨森芳洲は1668年、近江国伊香郡雨森村(現・滋賀県長浜市高月町雨森)に町医者の子として生まれた。江戸で朱子学を学んで秀才と評され、対馬藩に仕官する。

 1702年には釜山の倭館に滞在して朝鮮語を学んだ。第8次(1711年)と第9次(1719年)朝鮮通信使の接待責任者を務めた。朝鮮語と中国語に通じ、学問に秀でた芳洲は、通信使から高い信頼を寄せられたという。61歳のとき、朝鮮外交の基本的な心構えを52項目に分け、「交隣提醒」として著した。その最終項「誠信の交(まじわり)」で「誠信と申し候は互いに欺かず、争わず、真実を以って交わり」と強調した。

 この一節は90年5月、盧泰愚大統領(当時)の日本訪問時、宮中晩餐会で、「雨森芳洲は、誠意と信義の交際を信条としたと伝えられます。彼の相手役であった朝鮮の玄徳潤は、東莱に誠信堂を建てて日本の使節をもてなしました」と述べたことでも知られている。

 この雨森芳洲を顕彰する「雨森芳洲庵」が、84年に生地の高月町雨森に建設され、今月3日に開館30周年を迎えた。芳洲の生涯や朝鮮通信使に関する展示を行い、小中学生向けの勉強会を開くなど、さまざまな活動に取り組んでいる。年5000~6000人が来訪している。30日までは朝鮮通信使関連資料の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産登録を目指す活動、芳洲の著書を紹介する特別展が開催中だ。ぜひ多くの両国市民に訪れてほしい。

 雨森芳洲の業績、残した言葉がいまの韓日関係に示唆するものは多い。来年は韓日国交正常化50年だ。芳洲への評価が高まることは、両国友好にもつながるだろう。(L)