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2013/03/29

<オピニオン>韓国経済講座 第150回                                                        アジア経済文化研究所 笠井 信幸 理事

  • アジア経済文化研究所 笠井 信幸 理事

    かさい・のぶゆき 1948年、神奈川県生まれ。国際開発センター研究員、ソウル大学経済研究所客員教授、秀明大学大学院教授を経てアジア経済文化研究所理事・首席研究員

◆「クネノミクス」の哲学◆

 「尊敬する国民の皆様!700万の海外同胞の皆様!」去る2月25日ソウル汝矣島の国会議事堂前で行われた第18代朴槿惠新大統領の就任演説の冒頭の呼びかけである。この約2時間前の9時過ぎに、23年間暮らしたソウル・江南区三成洞の私邸を出たあと近隣住民から珍島犬2匹が送られ「行ってらっしゃい」と見送られた。黒塗りの車数台は警察に先導され猛スピードで李承晩元大統領、父である故朴正熙元大統領夫妻、そして金大中元大統領たちが眠る墓地、ソウル銅雀区の顕忠院(国立墓地)へ向かった。参拝後、彼女は院側から差し出された色紙に「経済復興、国民幸福、文化隆盛、希望の新時代を開きます」とその意を記した。その後、就任演説でこれらの意味するところを「尊敬する国民の皆様!700万の海外同胞の皆様!」と呼びかけたのである。

 この呼びかけから一カ月を経たが、新体制の組織、人事がまだ完全に決まっておらず(3月22日現在)本格的な始動には至っていない。

 ところで、朴槿惠政権のビジョンは「私の夢が叶う国民幸福国家」の創造で、国民一人一人が実感できる幸福感をもたらす政治を志向している。即ち1997年の通貨危機以来、08年のリーマンショック、その後のヨーロッパ財政危機など大きな経済的困難を経て、国民経済の低成長の中でこれらを乗り切るために進展してしまった国民生活の貧富両極化、社会の不公正感・不公平感の増大は、国民の幸福感を大きく削いできた。こうした状況に、12年12月4日に行われた第1回大統領選挙候補のテレビ討論で、「次の大統領は、何よりも緊急な課題は民生を生かして未来に対する希望を与えることだ」と主張し、国民幸福国家へのビジョンを示した。

 さて、国民に幸福感もたらすビジョンを実践する朴槿惠政権の政策運営の哲学とは何であろうか?クネノミクスの哲学は「公正な市場経済秩序を確立して庶民と中小企業など社会的弱者層を保護し社会全体が均衡成長を達成」することだ。これまで朴槿惠氏の主張は経済の低成長、格差社会、富の偏在する経済からの脱出を主要課題に掲げ、これらに対して「信頼と公正」に基づいた成長・雇用創出、福祉拡大、経済民主化に取り組むことで国民幸福国家を達成すると主張してきた。そして、そのためにいくつかの方向性を掲げている。

 ①原則が成り立つ資本主義への経路(Pathway to the Disciplined Capitalism)を最初に掲げている。これには09年5月に米スタンフォード大学での講演において「資本主義市場経済の原則を新しく確立することが時代的課題である」と述べ、リーマンショック後の世界経済、韓国経済再建を見据えた考えを披歴したことが背景にある。その基本姿勢は「信頼と公正」を基礎にした市場経済において、透明性の高い、公正な競争市場の確立とその企業活動の実践である。

 ②未来型創造政府で成長パラダイム再構築では、2012年10月18日の記者会見で、彼女はアップル社共同創業者のスティーブ・ジョブズを例に挙げ、「彼は無限な想像力で既に存在する技術を結び付けることで世の中を変えた」として、国民の実生活を支える生活密着型「国民幸福技術」を集中育成して、これらを産業全般に拡散する。これが創造経済論の核心である。つまり、創造経済の追求はこれまで開発されていなかった分野を広げ新雇用を生み出し、未来創造型社会を開き新たな成長パラダイムをもたらすと言うものだ。

 ③スマートニューディールは創造経済論の核心戦略で、科学技術とITで低成長を突破、新しい成長動力を生み出し良質な職場を創出するのが目的だ。その方針では、先進国の追い上げ型経済から先導型経済への転換、伝統製造業の高付加価値化、サービス産業の職場創出、成長率より雇用率向上、ソフトウエア産業を未来成長産業へ育成などを掲げた。

 ④民生に焦点では、輸出中心体質、財閥主導構造、雇用なき成長で落ち込んだ中産層を70%にまで引き上げ、雇用拡大、民生向上を図るとするものだ。そのためには膨れ上がっている家計負債の減少と不動産取引問題の解決によって中小企業、自営業者を集中的に支援することで、庶民の懐を温かくすると主張した。幸福国家へ向かうためのもう一つ重要施策は福祉政策である。

 ⑤オーダーメード(あつらえ)型福祉で社会的弱者層を包み込むがその主張である。他の候補者がさらに多くの福祉や幅広い福祉と訴えたのに対し、彼女はこれまで行われてきた福祉対策を「手厚く詰まった」福祉にし、必要に応じた選別的福祉にさらに重みを増す対策を訴えてきた。社会的弱者には様々な要素が絡み合っており福祉対策をただ幅広くするだけでは解決せず阻害要素に直接働きかける様々な福祉対策を講ずることが重要と言う考えである。

 ⑥仕事と家庭が両立する勤務環境設計は、クネノミクスの中でも朴槿惠大統領が以前から掲げてきた政策哲学である。少子化が進む中での子育てに対して、家庭で抱え込む問題ではなく国家と手分けして取り組む政策課題として位置づけている。女性は幸福国家へ向かう新成長動力であり、女性が心配なく仕事に打ち込める社会構築がその哲学で、女性の幸福は国民幸福国家の第一歩として位置づけている。

 クネノミクスに見る政策哲学は、いかにも女性大統領と言う感もあるが、その実きめの細かさ、既存条件を生かす対策など、これまでのある意味派手な実績を残そうとする大統領達とは距離があるように思われ、政策哲学に緻密さ、正確さが感じられる。今後5年間におけるクネノミクスの成果を注視したい。


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