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2015/02/27

<オピニオン>韓国経済講座 第171回                                                        アジア経済文化研究所 笠井 信幸 理事

  • 韓国経済講座 第171回

    かさい・のぶゆき 1948年、神奈川県生まれ。国際開発センター研究員、ソウル大学経済研究所客員教授、秀明大学大学院教授を経てアジア経済文化研究所理事・首席研究員。

◆2015年の意味◆

 日韓近現代史において2015年が六重の節目に立っていると誰が考えるだろうか?今年が戦後70年目、日韓国交正常化50年目の年であるというのはよく耳にするが、節目をもう少し長い時間軸で捉えることで今年を位置付けるとどうであろうか。第一の節目は140年目である。今から遡ること140年前というと1875年で、68年の明治維新から僅か7年である。この年江華島事件が起き、翌76年には日本と朝鮮国で「日朝修好条規」が締結され、朝鮮が鎖国から開国へと転換する史的起点となった年だ。それまで朝鮮は、交易を迫るドイツ商人を拒否(66年)、フランス軍の侵略(丙寅洋擾)を撃退、商船ジェネラル・シャーマン号事件に端を発したアメリカ艦隊侵入(辛未洋擾)の撃破など外圧による開国をことごとく退けていた。その意味で江華島事件を期にした朝鮮の開国は、今日の日韓関係を成す重要な史的始発点であり、この140年間の日韓関係のあり方を改めて考える節目となる。

 第二の130年目の節目となるのは85年で、1月9日に日本と朝鮮国の間で漢城条約、4月18日に清国と天津条約を締結。開国後朝鮮では開国派と鎖国派の政争が続く中で、開国派が鎖国派を抑え新政権樹立を宣言(甲申政変)したものの鎖国派を支える清国軍の介入により三日天下に終わった。その際開国派を日本が支援、清国軍が介入した時に大使館員、在朝日本人が大きな被害を受けた。その処理をしたのが漢城条約で、日本への謝罪と弁償を定めた。清国とは天津条約で日清両軍を朝鮮から撤退を約した。ここで、日本は130年間の節目にかつての日清朝関係から導かれる現代的な意味合いを学び日本の東アジアにおけるあり方を改めて見直す機会と捉える必要があろう。

 第三の120年目の節目は日清戦争後の日清講和条約(下関条約)である。95年4月17日に下関の春帆楼で締結されたもので、清国に多額の賠償と遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲などを定めたものである。なかでも最大の要求は清の朝鮮独立承認であり、その第一条で「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認」することを定めた。従来から清国の朝鮮の冊封体制廃止と朝鮮の清国依存脱出で朝鮮の独立(ロシア南下、西欧進出における中での朝鮮の独立)を望んでいた日本(その後帝国主義的侵略へと進展)の要求を戦勝国として清国に求めたものだ。現在の日中韓関係を考慮する中で、日本と韓国の関係を位置付ける意味でもこの120年を振り返る節目として重要であろう。


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