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2018/01/26

<オピニオン>韓国経済講座 第201回                                                        アジア経済文化研究所 笠井 信幸 筆頭理事

  • アジア経済文化研究所 笠井 信幸 筆頭理事

    かさい・のぶゆき 1948年、神奈川県横浜生まれ。国際開発センター研究員、ソウル大学経済研究所客員教授、秀明大学教授。アジア経済文化研究所筆頭理事・首席研究員、育秀国際語学院学院長。

◆10年サイクルで見ると◆

 「国家と国民が念願の夢を叶える瞬間」という盛り上がりはないようだ。韓国のこんな報道が多かったのだが、突然北朝鮮の参加表明で、別の意味で注目度が高まってきた。五輪が国家発展のシンボルという形で語られることが多かったものが、分断国家統一可能性の引き金として語られるのは珍しい。展開次第では、平昌五輪は新しい五輪の意味合いとなるかも知れない。しかし、韓国で開かれる五輪が、対立諸国の共同参加の場となるのは、実は前回もそうだ。1988年の第24回夏季五輪は、とりわけ五輪の精神である「参加することの意味」を強調した大会であった。76年の第21回モントリオール五輪では、南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離)政策に反対し、同国の参加に対し、アフリカ諸国の多くがボイコットをした。80年の第22回モスクワ大会では、前年12月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻に西側諸国が反対し、集団ボイコットという事態に至っている。84年の22回ロサンゼルス大会では、今度は83年にカリブ海にあるグレナダでクーデターが起きた際、米軍などが侵攻(グレナダ侵攻)したことを理由に、多くの東側諸国が報復ボイコットした。

 ボイコットはなかったものの、72年の西ドイツのミュンヘンで行われた第20回大会の開催中の9月5日にパレスチナ武装組織「黒い九月」により行われた人質事件で、イスラエルのアスリート11名が殺害された事件が起きている。このように、平和の祭典として行われる五輪は、70年代以降国際テロ事件や冷戦による東西対立の場と化して来たのである。

 そうした暗いイメージを一新し、参加することに意義を持つ平和の祭典に取り戻したのが、第24回ソウル大会(88年9月17日~10月2日)であった。ボイコットに揺れた第21・22・23回の大会とは違い、東西のアスリートのほとんどが参加したこの大会は本来の姿に戻ったと言える。つまり、韓国で行われる五輪大会は「対立を越えた参加」を実現する大会と言える。

 二回の韓国五輪のこうした意味付けも一定の説得性はあるが、より重要なのは、景気回復・成長回復との関連である。88五輪、18五輪と区切りの良い30年間のインターバルも、これと軌を一にする世界の信用サイクル(金融危機10年説)と連動している事実がある。その初めとされるのは、87年10月19日(月)に起きたブラックマンデーと呼ばれる、ニューヨーク証券取引所を発端とする史上最大規模の世界的株価大暴落で、世界恐慌の危機となった。

 その10年後の97年7月にはタイバーツの暴落を契機とした「アジア通貨危機」が起こった。80年代後半のアジアバブルにより外資の大量流入と共に先進国のヘッジファンドが短期資本を投入していたが、アジア諸国の金利引き上げなどインフレ抑制策がバブルの崩壊を招き短期資本の海外逃避などによりアジアのドルが引き上げられ、アジアの通貨危機が起こった。通貨危機は、ASEANで表面化しその後香港、韓国および日本と東アジア地域を北上した。

 07年に起こったのは、米国の住宅バブル崩壊による「サブプライム問題」である。住宅価格上昇を担保としてサブプライム、つまり返済リスクの高い低所得層への過剰融資がFRBの金利引き上げに耐え切れず、延滞率上昇で住宅価格が暴落したことで起こった「世界金融危機」である。これを契機にリーマンブラザーズの倒産、保険大手アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)の国有化などの金融不安が起こった。これが世界金融危機となったのは、返済リスクの高い住宅ローン債権の証券化であり、その証券がさらに多重保証を付けて一見優良債権として世界の投資機関に売却されていた証券が大暴落したことに起因している。

 一般に、信用サイクルは、拡大期→減速期→修復期→回復期という膨張と収縮を繰り返す。このサイクルが上記の様に10年おきに繰り返され、


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