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2001/11/02

<在日社会>障害者教育に尽くしたい

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    障害者のための教育について語る全英美さん

 全盲の韓国人留学生、全英美(チョン・ヨンミ)さんがこのほど東京大学大学院に入学した。4歳のときに失明した全さんは、学問への夢を持ち続けて96年に日本に留学、苦学の末に東大入学を果たしたものだ。全盲・全ろうの重度障害者で東大助教授となった福島智氏のもとで、韓国、日本、欧米の障害者教育を比較研究し、将来は韓国で障害者教育に尽くす決意だ。

 「全盲だからといって、自分がやりたいことは絶対あきらめたくない。どんな方法を使っても成し遂げるチャレンジ精神で生きてきた」と笑顔で答える。

 全さんは1969年生まれ。生まれた時から病弱で、3歳のときに目が見えにくくなり、4歳で完全に失明した。「幼かったので、(目が見えなくなってきたと)うまく親に伝えられなかったし、両親もすぐには気づかなかった」。

 小学校は清洲盲学校に入学、高等部までそこで過ごした。全さんが学校に通ったころ、韓国では障害者と健常者の統合教育、視覚障害者のための点字ブロックの設置なども、進んでいなかった。

 「視覚障害者で職を持つ人は、ほとんどがあんま業。政府はあんま業は盲人以外にはつけないように保護策を出しているが、逆にあんま業以外の職を選択するのが難しい状況にもなっていた。また、しんきゅう師の資格は全盲の人は取得するのが難しいなどのハンデもあり、どうすればいいかと考えた」

 95年に障害者特例入学が認められたのを契機に、全さんは大学進学を決意するが、受け入れ先がまだ少ないこともあり、大邱大学の初等特殊教育科に入学する。

 同大にはやはり全盲の先生がいて、全さんの恩師となる。ちなみに韓国で全盲の大学教授は延世大学にもう1人いるとのことだ。

 96年、あんまとしんきゅうの高度な知識を求めて日本留学を決意し、福岡盲学校に留学する。
 「韓国に最初の盲学校が出来たのは1910年代。実は日本人によって作られた。韓国ではそれまで視覚障害者が仕事につくことはなく、あんま業を学ぶ場もなかった。だから、あんまの技術も日本から来たものが多い。それで留学するならば日本と考えた」

 最初は日本語もわからず苦労の連続だったが、先生やクラスメートの支援を受けながら、生活に順応していった。日本語もすぐに上達、自炊もこなし、日本食にもなじんだ。うどんが好物だ。友人と買い物にいくことも多い。

 「日本は点字ブロックが普及してはいるが、行き先など内容が不十分。韓国は設置は遅れたけれど、表記は日本より詳しい。ただ両国とも視覚障害者が歩いているときのサポートが不十分。西洋では手をとったり気軽にサポートしてくれる。韓日ともバリアフリーの概念はまだこれから」

 福岡盲学校の卒業間近、韓国に身体障害者のための大学が出来ると聞いて、「将来はそこで教えたい」と進学を決意、筑波大学大学院に進む。そして今回、あこがれだった福島智助教授のもとで障害者のための高等教育を学ぶ。博士になり、卒業後は韓国の大学で教えるのが夢だ。

 「韓国にまだ障害者のための大学は出来ていないが、近い将来に実現するはず。視覚障害の後輩たちが社会進出の幅を広げられるよう手助けしたい。私たちがどんどん社会に出て一般の人々と接触していけば理解も得られるし、それが社会のバリアフリーにつながる。在日の人々も日本の人との付き合いを深めれば、深めるほど互いに理解しあえると思う。在日の障害者の人とも交流したい」と最後に述べた。