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2003/11/07

<在日社会>王仁塚を守り20年

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    20回目を迎えた「王仁博士まつり」

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                   王仁博士の肖像画

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    全羅南道霊岩にある広大な王仁廟

 1600年前に百済から日本に、論語や千字文を伝えた王仁博士(ワニ)〔写真:中央〕の遺徳をしのび3日、「博士王仁まつり」(大阪日韓親善協会主催)〔写真:上〕が、大阪府枚方市の伝王王仁塚で開かれた。王仁博士の功績を忘れないようにと1984年11月3日に始まった同まつりは、今年で無事20回目を迎えた。当日は趙世衡・駐日韓国大使全羅南道霊安の金チョルホ郡守など関係者100人が出席して、厳かに式典が行われた。

 この日のまつりには主催者、関係者をはじめ、「王仁塚の環境を守る会」(井口悌三会長)の人たち、趙世衡・駐日本大韓民国特命全権大使夫妻、朴ジョンチョル・大使館公使、金宰淑・韓国民団中央本部団長、金昌植・同大阪地方本部団長、李貞烈・婦人会大阪地方本部会長、金福男・大阪韓国商工会議所会長、瀬川芳則・大阪日韓親善協会副理事長、中司宏・枚方市長、高山豊三・宝塚王仁ライオンズクラブ会長、それに大阪府議会議員、枚方市議会議員の有志、そして王仁生誕の地、全羅南道霊岩から金チョルホ・郡守一行10人など約100人が出席した。

 趙大使は、「西暦405年に日本に千字文、論語を伝えた王仁博士は百済で生れ、壮年期、老年期を日本で過ごし日本(枚方)で亡くなった。日本の文化を育み、発展に大きく貢献し、その礎を築いた第1人者と言えるのではないかと思う」とあいさつし、王仁博士の功績を称えた。

 井口会長は、「王仁塚の環境を守る会の人たちが中心になり、地元自治会の協力などにより、王仁博士の偉業をより多くの方がたに理解をしてもらえるよう、今後も活動を続けて行きたい」と語った。

 金郡守は「枚方の王仁墓と王仁博士の生誕の地、霊岩が韓日文化交流の拠点として今後も交流を続けていくことを望む。日本大衆文化の第4次開放など文化交流が進む中、相互の歴史認識を大切に明るい未来を築こう」とあいさつした。

 そして同地区の枚方市立菅原東小学校の校歌に王仁博士にまつわる歌詞がある縁で、同校生徒が校歌を斉唱し、式典を盛り上げた。

 王仁博士の墓は大阪府枚方市藤阪にあり、1938年5月大阪府により史跡「伝王仁墓」に指定された。85年に「王仁塚の環境を守る会」が発足、墓域清掃と韓国国花「無窮花」の記念植樹を行った。

 88年には同会主催で史跡指定50周年記念式典を開催。92年には枚方市により墓域大整備、「記念碑」「休憩所」「化粧室」が作られた。98年には史跡指定60周年慶祝式典が開かれ、金大中大統領(当時)から親書が寄せられている。

 韓国・全羅南道霊岩郡郡西面東鳩林里から月出山の朱芝峰にいたる王仁博士遺跡址は、日本の応神天皇の招請により渡日して皇太子・宇治稚郎子(うじのわきいらつこ)の先生となり、論語と千字文を伝授し、日本の誇る飛鳥文化の始祖となった日本文化の聖人でもある百済時代の学者、王仁博士が生まれた場所。

 面積185万2400平方㍍のこの地は、1987年9月までの復元事業により現在の姿になった。

 百済14代近仇首王28年(373年)3月3日月奈郡爾林(現在の全羅南道霊岩郡郡西面東鳩林里)の聖基洞で、王旬の一人息子として生まれた王仁博士は8歳のとき、月出山朱芝峰の麓にある文山斎に入門し儒学と経典を修学した。

 文山斎は多くのソンビ(学識が高く高潔な人)や優れた儒学者を輩出した学問の殿堂で、学徳の高い碩学から教えを乞うために遠方から集まった優秀な儒学者たちが経学を学ぶ場所。聡明な王仁博士は、文章に優れ、18歳で五経博士に登用されている。

 当時の百済は、高句麗の度重なる侵略で国家存亡の危機にあり、17代の阿シン王は現在の日本である倭と修好を結び、太子を人質として日本へ送った。日本の応神天皇は百済の太子を7年後に百済に戻す際、優秀な学者を招請した。この応神天皇の招請を受けて王仁博士は日本へ渡ったと口伝されている。

 そのとき王仁博士は32歳、論語10巻と千字文1巻を持ち、陶工、冶工、瓦工など多くの技術者と共に日本に渡り、日本人に文字を教え、学問と人倫の基礎を作り、和歌を創始し技術工芸を伝授、日本人が誇る飛鳥文化の元祖となり、日本社会に政治経済と文化芸術の花を咲かせた。

 遺跡址には生家の礎石や王仁博士が飲んだ井戸水〝聖泉〟があり、1976年11月11日建立された遺墟碑もある。王仁博士の位牌と肖像画が奉安されている王仁廟(祠堂)〔写真:下〕では毎年陰暦3月3日に王仁博士追慕祭が行われる。また、月出山中腹には王仁博士が勉強に励んだ冊窟と文山斎、養士斎がある。冊窟前の石人像は博士の徳行をしのび後世の人が建てたと言われ、博士が道袍(礼服)姿で遠くの霊岩湾を向いて、誕生の地・聖基堂を見下ろしている。百済時代、国際貿易港として栄え、博士が日本に発つとき、船に乗ったとされる上台浦も復元されている。

 聖基洞南西にあるドルジョン峠は博士が日本に渡るとき、友や門下生との別れを惜しみ愛する故郷を振り返った場所と伝えられている。展示館には誕生・修学・渡日・学問伝授などを描いた記録画が飾られている。