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2003/12/12

<在日社会>没後40年力道山の闘い、再評価

  • zainichi_031212.jpg

    都内で行われた「夫・力道山の慟哭」出版記念会。右から2人目が
    田中敬子・故力道山夫人

 戦後のスーパースター、プロレスの力道山が没してから今年で40年。夫人の田中敬子さんが40年の沈黙を破って夫の思い出についての本を出版し、評判を呼んでいる。また11日には東京・後楽園ホールで「没後40年追悼記念大会」が開かれ、17日からは日本橋高島屋で「力道山展」が開かれ、遺品のベルトなどが展示される。38度線での銅像建立、力道山記念館、韓日で特別番組制作なども進められており、力道山再評価の動きはしばらく続く。

 力道山は、1924年に現在の北朝鮮の咸鏡南道で生まれた。朝鮮姓は金信洛。渡日して二所ノ関部屋に入り、関脇まで昇進するが、廃業してプロレスに転向、空手チョップで絶大な人気を誇り、日本プロレスの基礎を築き上げた。

 空手チョップを鍛えるために、木台の上で木槌で右手を殴ったり、砂浜に打ち込んで訓練したという逸話もある。空手チョップには「在日の誇り、祖国分断への怒りが込められていた」と当時の関係者は話す。

 亡くなったのは63年12月15日。ナイトクラブで暴漢に刺され、入院先の病院で死亡した。

 夫人の田中敬子さんは今年夏、長い沈黙を破って自伝を出版。力道山が清潔好きでやさしい性格だったこと、「朝鮮半島がスイスのようになればいい」と語るなど、南北の平和に強い関心を持っていたことなどを明かした。

 田中さんの本はロングセラーとなり現在3万部が売れ、韓国語版の出版計画も進んでいる。愛弟子だったアントニオ猪木さんは、力道山の遺志を継いで38度線に力道山の銅像を立てる計画を進めている。

 また力道山二男の百田光雄さんは、没後40年を節目に力道山記念館を作る計画を進めている。遺品のチャンピオンベルトや血の跡が付いたガウンなどを展示する計画で、そのための会社リキエンタープライズも昨年立ち上げた。没後50年までに記念館を完成させたいとしている。

 田中敬子未亡人が著した「夫・力道山の慟哭」(双葉社)の出版を祝う会がこのほど都内のホテルで開かれ、関係者800人が参加した。

 会には、力道山の愛弟子のアントニオ猪木をはじめ、金田正一、張本勲、ザ・デストロイヤー、佐渡ヶ岳親方らが壇上にあがり、故人を偲んだ。力道山の死後に生まれた娘・浩美さんも、直接見ることのない父親を懐かしがっていた。駐日大使館関係ほか、在日社会からも民団や信用組合、商工会議所関係者らの姿も見えた。

 この会の代表発起人のアントニオ猪木は、「この場所にジャイアント馬場(故人)がいないのが残念だ。先生は大変厳しい師匠でしたが、大変優しいところもありました。また大変な酒飲みでした」と振り返った。

 双葉社の谷ヶ城五郎社長は、力道山本の第2弾、第3弾を出す計画だと述べた。

 田中敬子さんは、「夫のことを風化させず、また真実の姿を伝えたかった」とあいさつした。