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2007/12/14

<在日社会>苦難の「在日人生」を綴る

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    オ・ムンジャ 1937年岡山市生まれ。東洋音楽短期大学(現、東京音楽大学)卒業。同人誌『鳳仙花』の創刊(91年)より20号(05年)まで、同人代表。調布市女性問題広報紙「新しい風」編集委員(94年~96年)、調布市「町づくり市民会議」諮問委員(98~99年)を歴任。現在、在日女性文学誌『地に舟をこげ』編集委員。 

 在日2世のエッセイスト呉文子さんが、これまで書き溜めたエッセイをまとめた「パンソリに想い秘めるとき―ある在日家族のあゆみ―」(学生社、四六判、208㌻、1800円)を出した。思想対立に巻き込まれ父と長い断絶、ペルー人質事件に巻き込まれた息子、地域での共生活動など、70年の波乱の人生が記されている。呉文子さんに話を聞いた。

 ――北朝鮮への帰国事業をめぐって父との断絶、夫の朝鮮大学教授辞任と、在日の思想対立に巻き込まれたが。

 北朝鮮への帰国事業が始まったのは1959年12月。帰国運動を積極的に推進していた父は、60年8月、北朝鮮訪問団の一員として北を訪れた。

 ところが、いざ訪ねてみると、先輩に面会を申し込んでも会わせてもらえない、一緒に行った寺尾五郎氏は帰国青年に、「あなたの書いた本にだまされて、一生を棒に振った僕たちをどうしてくれる」と詰め寄られた。

 真実を知った父は、日本に戻ってから「楽園の夢破れて」を自費出版し、帰国事業は誤りだと批判した。私は朝鮮総連の熱心な活動家、夫は朝鮮大学の教授で、私たちは父と絶縁することになった。その後、「民族反逆者」の家族がいるということで、夫は批判され、結局71年に大学を辞めた。私たちは父を10年ぶりに訪ねて謝罪したが、本当につらい思いの10年間だった。86年に72歳で亡くなるまで、それまでの不孝を取り戻すべく誠意を尽くした。 

 いまだからこそ、父が警鐘を鳴らしたのは事実だと受け止めてもらえるが、本当に「狂乱の時代」だった。

 ――同人誌の発行、そして地域に生きる中で「共生」の大切さを知ったとか。

 調布に越したのは76年。夫婦とも組織で生きてきたので、それらと断絶して新しく生きるのは、大変だった。まず始めたのは同人誌『鳳仙花』を創刊。在日女性のさまざまな声や生き様を取り上げ、15年間発行した。21号からは若い同人に編集を委ねた。

 調布では地域女性史を学び、聞き取り調査を日本の女性たちとする中で、地域で在日と日本人が「共生」する意味を身をもって理解した。また在日としてどう街づくりと関わっていくかも学んだ。市民意識が芽生え始めたと言ってもいい。それが「異文化を愉しむ会」の立ち上げと、高齢者問題での地域活動などに結びついた。

 ――ペルー人質事件に息子さんが巻き込まれた話は印象的だ。

 96年12月18日、ペルーの日本大使公邸がゲリラに占領されたとテレビのニュースが流れた。長男は当時32歳、商事会社に勤務しペルーに赴任していた。息子は仕事で日本大使館に出入りすることが多かったので、危ないと感じたが、やはり人質になっていた。

 自宅にマスコミが殺到する一方、会社からはかん口令が出ていたので、外出も電話に出ることもできなかった。本当につらい日々だった。12日後に息子が釈放されたが、涙でテレビの画面が見えないほどだった。

 夫はこの事件を契機に自らの半生を書き始めた。もし息子が亡くなったら、孫たちに歴史を伝えておきたかったからだという。息子は人質となったことで、改めて在日に生まれた自分の存在を振り返ったという。

 ゲリラには若い少年少女が多くいた。貧困ゆえにゲリラとなり、そして全員の命が奪われた。彼らの肉親はどういう思いでいま生きているだろうと、いつも考える。

 ――最後に、70年の半生を振り返って一言。

 感慨を覚えずにはいられない。在日がイデオロギーに束縛された時代は終わった。過去に踏んだ数々の蹉跌が、在日社会にとって決して無駄ではなかったといえる新しい時代に、子どもや孫の世代は生きてほしい。私のつたない著書が、その一助になればと願う。