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2008/06/20

<在日社会>在日新世紀・新たな座標軸を求めて⑮                                                  ― 在日韓国人医師会会長 難病の川崎病治療に尽力 チョ・ジャヨンさん ―

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    チョ・ジャヨン 1944年ソウル生まれ。昭和大学医学部卒。83年日本心臓財団賞受賞。2001年6月「韓国川崎病研究所」設立。03年木蓮賞(韓国)受賞。04年「駐韓日本大使表彰」。07年2月在日韓国人医師会会長に就任。

 医師として韓日両国で医療活動に携わる。専門は小児循環器。都内の病院で医師として勤務する一方、韓国の高麗大学などで教壇にも立つ。40年近い医療活動の中で特に尽力してきたのが「川崎病」の治療活動だ。

 「川崎病」とは、生後4カ月頃から発病し、高熱や皮膚症状を呈し、重症の場合には心筋梗塞にかかりやすくなる難病。突然死の危険もあるといわれ発病原因は不明だ。67年に日本の川崎富作医師が発見したことから、川崎病と名付けられた。

 韓国と日本で発病率が高く、毎年韓国で3000人、日本で6000人近くが発病している。

 「なぜ川崎病にかかるのか、その発症原因を究明して治療法を確立し、患者を救うことは生涯かけての目標だ」

 日本では63年から治療にあたり、韓国・春川には2001年6月に「川崎病研究所」を開設した。韓国語による「川崎病Q&A」を韓国で初めて発刊し、川崎病に対する知識が少ない韓国社会に警鐘を鳴らしてきた。

 同研究所の設立を受けて、韓国川崎病父母の会も2001年12月に結成され、チョ医師の橋渡しで、韓国の患者と家族も数度にわたって来日し、日本での診察や、日本の家族会との交流活動などを行ってきた。

 「日本の家族会は20数年の歴史があるので、その経験を伝えることが、韓国の家族の支えになると考えた。両国の家族の会がともに川崎病に立ち向かい、励ましあうことが出来ればと思う」

 日本に来たのは韓日国交正常化前年の1964年、まだ高麗大学医学部の学生だった。日本に父親が住んでいた関係で日本の医療を学ぶために来日した。昭和大学医学部に入学し、小児医療を志す。卒業後、東京女子医大心臓病センターの研究員となるが、研究費を得るためには日本国籍が必要と言われ、悩んだ末に日本に帰化した。

 80年に昭和大医学部の教授となり、日本の先進医学を韓国で講義するため、韓日を往来するようになった。韓国は臨床研究が盛んなものの、基礎研究の蓄積が足りないため、基礎研究の改善に力を尽くした。次に打ち込んだのが、障害者や先天異常に対する社会の偏見を減らす取り組みだ。

 「障害者や先天異常の子供がいると、隠さざるを得ない家族が多かった。社会の偏見を取り除き、国による支援体制が確立することを訴えた」

 活動の一環として、98年に韓国で初の先天異常学会を創立させるのに尽力した。その後も同会のメンバーの一人として活動している。

 一方、96年には韓国籍を再取得した。

 「日本国籍でなくても日本での医療活動に支障がなくなったし、逆に韓国での医療活動には韓国籍が良いと考えたからだ」

 駐韓日本大使館の依頼を受けて、同大使館内の邦人保護課で、韓国旅行中に病気になった日本人や在日の患者の診察も97年から7年間受け持った。日本語で診察できるチョ医師は、病気になった旅行者にとって貴重な存在。その功績が認められ、04年には「駐韓日本大使表彰」を受けた。

 07年2月には10年ぶりに活動を再開した在日韓国人医師会の会長に就任。今年4月には在日の人権問題のシンポジウムで講演した。また、北朝鮮に作られた開城工業団地で医療活動を行っている韓国のボランティア団体グリーンドクターや韓国大使館の要請を受けて、同地域での医療活動も模索している。

 昨年から東京韓国学校の理事にも就任。在日とニューカマーの間で内紛が続いた理事会の建て直しに、役割が期待される。また12日には同校の生徒1200人の検診も行った。

 「理事会、父母会だけでなく、生徒にも出席してもらって東京韓国学校をどうするかフォーラムを開きたい。まず声を聞くことが改革の第一歩になる。秋には開催したい」と意欲を見せる。

 韓日両国、そして在日社会で医療活動、社会活動をするなかで、異文化理解の必要性を肌身で感じた。その異文化体験を一冊の本にまとめて、99年に著書「玄界灘を行き来した人々」を韓国で出版した。

 「異文化を理解するには長い時間がかかるが、真しにお互いが向き合えば、必ず理解できると信じている。小児医療の活動を通じて韓日の懸け橋になりたいと願ってきた。また、北朝鮮の医療も同じ民族として何とかしないといけない。在日の人たちは統一、そして韓日友好に関心を持ち、アジア人として、さらには国際人として生きてほしい」