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2008/01/11

<在日社会>在日新世紀・新たな座標軸を求めて⑨                                                                    ― 新旧在日の統合願う・横浜国立大学教授 柳 赫秀さん ―

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    ユ・ヒョクス 1953年韓国生まれ。75年延世大学校法学科卒業。80年文部省奨学生として来日。88年東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。98年横浜国立大学大学院国際経済法学研究科教授。著書に『講義国際法』(05年、三省堂、共著)など。 

 「在日本韓国・朝鮮人社会(以下、在日社会)は長い間の複雑な過程と構成員の多様化により、大きな変化に直面している。第1の問題は、『在日』の数的減少だ。『在日』の総数は1世の死亡、3、4世の数的減少および帰化の継続的増加により、すでに45万人を切り、このような状況が続くなら、遠くない未来に『在日』という韓国籍を持ちつつ日本の永住権を持つ存在は終焉を迎えることになるだろう」

 国籍と教育問題が在日社会の愁眉の課題ではないかと、柳教授は訴える。

 「民族学校の果たしてきた役割はとても大きいが各種学校であることに変わりはない。最近一部の在日によるコリア国際学園設立の動きはそれ自体として歓迎すべき出来事だが、在日の将来を考えた場合、マジョリティーと同じく日本学校に通い、その中で民族学級を充実させる方法を模索すべきではないかと思う。日本政府・自治体はルーツが異なる子どもたちの教育をフォローすべき責任がある。居住国の言語である日本語と、ルーツの言語をきちんと習うことの出来る態勢を整えてほしい」

 「国籍の問題でも、オールドカマーは4世の時代になり、正直言って日本人に近い。そういう在日が韓国籍をいつまでも保持していくのは不自然だ。その限りにおいてはアイデンティティーと国籍との乖離について問題提起した鄭太均・首都大学東京教授の意見は一理ある。日本という土地に住んでいるだけでなく、日本『社会』に生きている限り、日本国籍取得を真剣に考えていくべきだろう。国籍取得はある政治団体に加わりたいとの意志(will)表示でもあり、良し悪しは別に、通常既存のメンバーはそれを期待する。重要なことは、今のように帰化して埋もれる(同化する)のでなく、『見える存在』として参加して行くことである。国籍は完全参加の究極形態なわけで、そう考えると外国人参政権要求と日本国籍取得は二者択一の問題ではない。今後はニューカマーとその子供たちにとって国籍は何かが問われるだろうが、国籍を利便性で考える傾向が増えていくだろう。オールドカマーもニューカマーも、日本国籍取得の問題をもっと真剣に議論すべきだ」

 オールドカマーとニューカマーの融合も真剣に考えるべきと強調する。

 「ニューカマーの出現による在日社会の多様化そのものには何ら問題はないが、戦前から住み着き相当程度日本化したオールドカマーの『在日』と、急増したニューカマーが同質な構成員として、果たして在日社会を仲良く運営していけるのかどうか。民団、総連という在日の2団体は金属疲労を起こしている。他方で10万人を越えるといわれるニューカマーをたばねる組織が出来るかどうか。『在日本韓国人連合会』という団体はあるがいまだ幼稚な段階だ。在日社会全体を代弁する組織を今後20~30年の間にどう作っていくのか、大きな課題だ」 

 日本社会との共生の道筋も大切と強調する。

 「日本社会に目を向けると、依然として単一民族意識が深く根を下ろしている。北の拉致問題などもあり、在日社会を見る目は決して穏やかではない。もちろん日本社会も変化の速度がゆるやかとはいえ、『静かな転換』を成し遂げており、外国人に対する態度も以前とは比較にならないほど変化が見られる。しかし、依然として外国人という異質的な要素をマジョリティーである日本人が受け入れ共存していけるかについて、今のところ明確な展望が開けてはいない。多文化共生が叫ばれる割には、いまだに自らの民族名と文化を保持しつつ国籍を取得する『○○系日本人』という概念が受け入れられていないことがその証拠だ」

 「在日が日本社会で存在感を示し、マジョリティーにとって意味ある存在になるにはどうすればいいか考えたい。基本的にマイノリティーはマジョリティーより広い視野と問題意識を持っている存在である。だから文化活動だけでなく政治的にも存在感を示せると思う。日本人は我々マイノリティーの存在によって日本社会がより豊かになれることを認識すべきである。我々の子どもたちの将来の選択肢を増やすため、国籍と教育、そして組織の再構築が大切だ。世代が下っても民族や出自を知る機会さえあれば、後はアイデンティティーを自ら模索していくだろう。日本も在日社会も内向きで、タブーがありすぎる。どちらももっと内部での議論が必要ではないだろうか」