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2011/04/22

<トピックス>切手に描かれたソウル 第10回 大韓赤十字社                                                 郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に描かれたソウル 第10回 大韓赤十字社①

                 大韓赤十字切手(図1)

  • 切手に描かれたソウル 第10回 大韓赤十字社②

    1950年代の大韓赤十字本社ビル(図2)

  • 切手に描かれたソウル 第10回 大韓赤十字社③

                 大韓赤十字切手(図3)

◆災害支援活動に尽力・南北離散家族再会事業も◆

 3月11日に起きた東日本大震災では、韓国からも巨額の義援金が大韓赤十字社(以下、韓赤)などに寄せられた。というわけで、今回は韓赤のことについて、関連する切手などを取り上げながら、書きたいと思う。

 韓国における赤十字の歴史は、旧大韓帝国政府が1903年にジュネーブ第1並びに第2条約を調印し、1905年に高宗が赤十字の創立を宣言したことに始まる。日本統治下では、一国一組織の原則により、朝鮮の赤十字は日本赤十字社に吸収され、その支部扱いとなったが、1919年に上海で組織された大韓民国臨時政府は独自の赤十字組織を有していた。

 解放後、米軍政時代を経て1948年に大韓民国が正式に発足すると、翌1949年、新たに大韓赤十字社が発足した。これが現在の韓赤の直接的なルーツである。

 1950年に韓国戦争が勃発すると、韓赤はさまざまな救援活動を行い、休戦直後の1953年8月1日には、その活動資金を集めるための寄付金つき切手も発行された。(図1)

 図2は、おそらく休戦直後の韓赤本社ビルをとりあげた絵はがきで、画面の左手前には戦争で被害を受けたと思しき壁の一部が映っているのが生々しい。右側の説明文を見ると、韓赤本社ビルの所在地はソウル南山洞となっている。おそらく、地下鉄4号線の明洞駅からも近い現在の社屋の所在地、中区南山洞3街17番地と同じ場所ではないかと思う。

 ちなみに、韓赤が国際赤十字から承認を受けたのは休戦後の1955年5月25日のことであった。

 韓赤の社屋を取り上げた切手としては、1971年12月に発行された「南北赤十字会談(予備会談)」の記念切手(図3)がある。

 1970年8月12日、韓国赤十字社総裁の崔斗善が「南と北の赤十字社が南北の離散家族を再会させる運動を共同で展開しよう」と呼びかけると、北もこれに応じ、同年9月20日、板門店の中立国監視委員会会議室で、離散家族さがしのための南北赤十字代表の予備会談が行われた。

 さて、会談は9月20日の午前11時ちょうどに始まり、本会談での議題、時期、会談の運営方式等が議題となり、①板門店での会談の継続、②公式発表は合意事項に限る、③板門店に会談連絡事務所を設け、2名の常駐職員を置くとともに、南北赤十字社間のホットライン(直通電話)を開設するという3項目の合意がなされた。その後、1972年8月30日に第一次本会談が平壌で開催されるようになるまでの間、南北双方の実務者による交渉や予備会談等が合計41回、行われていくことになる。

 ところで、図3の切手では、韓赤本社の社屋がかなり大きく描かれている。もちろん、下の地図との関係ではデフォルメされているのだが、図2の絵はがきの社屋が3階建てなのに対して、図3の切手は7階建てだから、かなり拡充されていることは間違いない。

 “漢江の奇跡”の高度経済成長により、韓赤もその事業を大きく拡大し、それに比例して社屋も大きくなったということなのだろう。

 現在のソウルでは、韓赤本社ビルはその社会的な重要性に比して必ずしも目立つ存在ではないが、高層ビルなどほとんどなかった1970年代初頭のソウルでは、その威容は十分に切手に取り上げるだけの価値があると判断されたのかもしれない。