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2012/01/27

<トピックス>切手に描かれたソウル 第18回 「青磁飛龍形注子」                                                 郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に描かれたソウル 第18回 「青磁飛龍形注子」 

    青磁飛龍形注子

◆韓国国宝第61号・高麗時代の象形青磁の傑作◆

 いまさら「おめでとうございます」とは言いづらい日付になってしまったが、ともかくも今年最初の本連載なので、干支の龍を取り上げた切手のうち、ソウルで実物を拝めるものということで、韓国の国宝第61号に指定されている青磁飛龍形注子を描く額面5ウォンの普通切手をご紹介しよう。

 切手に取り上げられた注子(水差し)は、高麗王朝時代の西暦12世紀、王都の開城(現在は北朝鮮領内にある)で作られたもので、人物や動植物を象った象形青磁の傑作として、ソウルの国立中央博物館に収蔵されている。

 国宝としての登録名は飛龍となっているが、正確には、魚龍(頭が龍で体が魚という想像上の動物)が跳ね上がる姿を表現したものらしい。

 魚龍については、黄海に棲むシャチがもとになっているという説もあるが、注子を見る限り、水族館で芸をしている実在の動物というより、名古屋城の屋根に乗っている金鯱のシャチのイメージに近いように思う。

 ちなみに、金鯱のシャチは、魚の胴に虎の頭を持ち、背には棘が生え、尾は常に空を向いているという想像上の動物だ。龍の頭は、ラクダの頭をベースに鹿の角と幽鬼の眼を組み合わせたものとされているので、正確に作ろうとすれば、金鯱のシャチとは顔つきも異なってくるはずだ。

 ところで、今回ご紹介の5ウォン切手は、1962年12月31日に発行されたが、これは、同年6月に行われた通貨改革に対応したものであった。

 日本統治時代の朝鮮では、日本銀行券と等価の朝鮮銀行券が流通していた。両者の通貨単位は、漢字で書けばいずれも円(圓)だが、その読み方は日本語ではエン、韓国語ではウォンとなる。

 1945年の解放と南北分割占領に伴い、日本時代の朝鮮銀行は解体されて米ソそれぞれの軍政府に接収された。このうち、米軍政下の南朝鮮の朝鮮銀行は、1950年6月に現在の韓国銀行が発足するまで、南朝鮮ウォンないしは韓国ウォン(旧ウォン)を発行していた。

 解放後韓国では猛烈なインフレが進行していたが、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、インフレはさらに昂進した。

 この結果、1945年10月に1米㌦=15ウォンでスタートした旧ウォンは、1951年4月には1米㌦=6000ウォンにまで下落。その後も、戦時インフレは一向に収まらず、朝鮮戦争末期の1953年2月15日、100ウォンを1圜(ファン)とし、1米㌦=60ファンとするデノミ(通貨単位の切り下げ)が断行された。

 その後、1953年7月に朝鮮戦争が休戦となり、米国の経済支援を受けて韓国経済の復興もそれなりに進むとファンの対ドル為替相場も安定したが、1960年4月に学生革命で李承晩政権が倒れ、新たに発足した第2共和国の尹潽善・張勉体制の下で政治的・社会的混乱が深刻化すると、インフレの進行に伴いファンの通貨価値も一挙に下落。1961年元日には1米㌦=1000ファン、さらに2月には1米㌦=1250ファンにまで暴落した。

 こうした中で、第2共和国の混乱を収拾すべく、1961年5月16日のクーデターで政権を掌握した朴正熙は、翌1962年以降、第一次五カ年計画を実行に移すなど、経済再建に本格的に乗り出し、その一環として、1962年6月9日、10ファンを1ウォンとする通貨改革を断行した。この時導入された新ウォンが、現在の韓国ウォンであり、当初の為替レートは1米㌦=125ウォンの固定相場であった。

 今回ご紹介の切手は、他の額面の切手とともに、この新ウォン導入に対応すべく発行された。

 この時発行された切手は、その後、用紙が変更されたり、ローマ字での国名表示が入ったりするなどのマイナー・チェンジはあったが、その基本的なデザインは、1969年にグラビア印刷の普通切手が登場するまで継承され、“漢江の奇跡”と呼ばれた高度経済成長が軌道に乗るまでの朴正熙時代前半の郵便物に日常的に使われた。