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2012/05/25

<トピックス>切手に描かれたソウル 第22回 「亀甲船」                                                 郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に描かれたソウル 第22回 「亀甲船」①

                    亀甲船の切手

  • 切手に描かれたソウル 第22回 「亀甲船」②

                   亀甲船の復元模型

◆麗水で建造された李舜臣将軍の亀甲船◆

 麗水万博が始まった。

 麗水といえば、李舜臣が全羅左道水軍節度使(全羅南道の水軍司令官)として赴任し、亀甲船を建造した土地で、毎年5月には亀甲船祭りが行われることで知られている。

 亀甲船に関する記録は、朝鮮王朝の歴史書である『太宗実録』太宗13年2月5日甲寅条に「上過臨津渡觀龜船倭船相戰之狀」との記述が最初のもので、亀船という名で、首都防衛のために臨津江に浮かべられていたらしい。ここでいう太宗13年というのは西暦1413年に相当する。いわゆる倭寇の時代である。おそらく、日本刀での切込みを得意としていた倭寇に対抗するための工夫を凝らした船だったのだろうが、この記述だけではその実態はよくわからない。

 なお、『太宗実録』には太宗15年7月16日辛亥条として「其六龜船之法衝突衆敵而敵不能害可謂決勝之良策更令堅巧造作以備戰勝之具」との記述もあるが、これは「亀船は敵に衝突し損害を与える。勝利を決める良策として建造された堅い船である」という以上のものではなく、具体的な大きさなどは不明である。

 ちなみに、1419年、すでに世宗に王位を譲っていた太宗は、倭寇の拠点とされていた対馬の襲撃を命じたが(応永の外寇)、その際、亀甲船が使われたのかどうかは定かではない。

 李舜臣が亀甲船を用いて日本の水軍を破ったとされるのは1592年の出来事で、李舜臣とともに海戦に参加した甥の李芬の「李舜臣行録」には、以下のような記述があるという。

 亀甲船の大きさは、板屋船(当時の主力戦船)とほぼ同じく上を板で覆い、その板の上には十字型の細道が出来ていて、やっと人が通れるようになっていた。そしてそれ以外は、ことごとく刀錐(刀模様のきり)をさして、足を踏み入れる余裕も無かった。

 前方には龍頭を作り、その口下には砲口が、龍尾にもまた砲口があった。左右にはそれぞれ6個の砲口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ。戦闘になると、かや草のむしろを刀錐の上にかぶせてカモフラージュしたので、敵兵がそれとも知らず飛び込むとみな刺さって死んだ。また、敵船が亀甲船を包囲するものなら、左右前後からいっせい砲火でやられた。

 この記述内容が広まって、亀甲船イコール李舜臣というイメージが定着。解放後、韓国のナショナリズムが形成されていく過程で、日本を破った民族の英雄、李舜臣のシンボルとしてもてはやされることになり、韓国・北朝鮮の切手にも何度か取り上げられているようになった。ただし、李舜臣の時代の亀甲船の実物は現存しておらず、その姿はあくまでも想像の域を出ない。

 亀甲船を描く切手の中で最も有名なのは、アメリカ軍政下の1948年4月10日に発行された50ウォン切手であろう。切手に描かれた亀甲船は、李舜臣の死後およそ200年が過ぎてからまとめられた1795年の『李忠武公全書』に掲載されている想像図を元に描かれたもので、日本の教科書の図版などともほぼ同じイメージだ。この切手が発行された当時、書状の基本料金が2ウォン、書留料金が5ウォンで、50ウォンは最高額面の切手だった。なお、大韓民国成立以前の切手であるため、切手上部の表示が「朝鮮郵票」となっている点も興味深い。

 さて、ソウル・龍山洞の戦争記念館には、亀甲船の実物大と思しき復元模型が展示されている。吹き抜けのフロアに鎮座する模型には、角のある龍頭がつけられているほか、甲板にはマストが建てられ帆も掲げられていて、切手の亀甲船とはかなりイメージが違う。どちらも想像の産物といってしまえばそれまでだが、個人的には、切手の絵柄、すなわち、『李忠武公全書』のほうが、より亀らしくて、僕は好きだ。